東京の講談界は今や全体の1/3が女流で占められており、「男もやってる」というような冗談も飛び出すほどです。「女流講談は戦後になってから誕生した」と思っておられる方も多いでしょうが、実は江戸時代からありました。”摂陽奇観”によれば今から170年も昔、『伊達騒動』『太閤記』を演じていた円山尼と言う女流講談がルーツのようです。
「マリリン・モンロー」より
つぎは明治時代ですが、雑誌”娯楽世界”によれば、明治22〜3年頃先代松林伯円(後の松林東玉)の門下で伯盛女と言う女流講談がいました。当時17〜8歳で器量はともかくも芸は前座一人前には通用する代物でした。初席は浅草弁天屋の昼場で出し物は『宮本二刀伝』、新し屋の伯円はこれを特に優遇して丈長のさげビラにして大きく売ったとか。所が耳が肥えていた釈場の聴衆(聞き手)は「女の声を聴くだけで嫌だ」と一蹴したので、彼女はまもなく東京から姿を消したのでした。
その2〜3年後出たのが円月女で以前フランス人の妾だった女で、これも伯円の弟子である。明治25年8月東京春木座で伯円を座頭とした講談師芝居が行われ、この中に松林円月女が出演していた。その頃の有名な漢学者にして劇作家の依田学海も、この円月女の芝居を観てその印象を彼の日記”学海日録”に次の様に書いています、
「雪中梅にて 淑女お春を、円月女といへる伯円が門人これに扮せり。歳はなほ十六、七にや、技芸もまた良し。楽屋に至りて伯円を見、また円月女を見る。円月は米坡とも心やすき中なるよしいひき。伯円は、これを己が女(娘)なりと言謂しかど、実子にや養子にや、知りがたし。」
この後、円月女はたびたび学海宅を訪問、学海も彼女の講談を聴きに出かけたようです。また”学海日録”で円月女の経歴・印象をこう書いています、「元会津藩.生駒某の子、幼くして松田氏に養われ本名を松田深雪という。武家の出であり鎖鎌ができる。女教師から明治25年4月に伯円に入門有楽館などに出演、髪は束髪結にて身には飾り多き披布を着たりき。色白く眼光きらきらにして口頭もいと爽やかなりし。」と極めて好意的です。
しかし学海も幕末から明治の人、彼女を非難する記事も残しています、「この女子、講談師のうちなる伯遊(後の若円)に馴染みとか。その師伯円語りき、果たして我言=技芸をもて世を渡女子は身持ちよからぬものなり=の如くなりしは、いとあさまし。」と当時の識者とて女性に対する考え方はこの程度でした。
明治の新聞には円月女のほかにも女流講談が登場します。
☆この頃桃井龍女という講談師が出来ました・・・この龍女のやうに・・・独りで世渡りをすれば男ばかりを頼みにするにも及ばず、無理を言われてヘエヘエ言うにも及ばず、そこで男女同権ということも出来る・・・(読売新聞)
☆仙台長寿亭に開講の女講談師小円女は中々の好評判なり。(奥羽日日新聞)
☆名古屋富本席に於て、東京娘新講談・松林小円女の初御目見得・・・本年25歳の美人、しかも水の流るるごとき嬌舌を揮ふとのこと。(扶桑新聞)
☆娘講談の松林小円女、今治本町・長栄座に出演、伯円門人で演説風の講談。(海南新聞)
以上円月女を中心に女流講談の歴史を紹介してきましたが、女流の活躍は昭和戦前にもありまして、戦後突然現れた現象ではありません。われらの講談は紛うことなく数百年の歴史をもつ日本の代表的な伝統芸能と言えましょう。
【資料提供 講談研究家 吉沢英明さん】
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