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東京新聞2003年8月22日から9月4日に連載されたものです
井荻 鷺宮 早稲田 信濃町 西新宿
大久保 東高円寺 向島 上野広小路 向島2

第1話 井荻
03年8月22日(金)
『見返したい』と上京
故郷博多で1年間の浪人生活を経て、花の東京にやって来た。青雲の志を立ててと言いたいところだが、実は失恋の果ての逃避行に近い上京だった。浪人中にフラレた腹いせに、東京に出て有名になって彼を見返してやりたいというのが本音だ。目的はそんな執念めいたものでも、田舎での娘にとってはネオンきらめく東京の町は十分に魅力的だった。早稲田大学の学生課で下宿の案内を見ていくつか回ったが、仕送りで借りられるところはジメジメとした狭い部屋ばかり。ドラマで見るような一人暮らしの幻想はあっという間に消えうせた。仕方なく間借りを選択する。「早稲田の女子学生に限る」のただし書きにひっかかるものもあったが、井荻のお宅に伺った。駅から10分ほど歩いた武蔵野の面影が残るのどかな田園の中に、檜木造りの立派な日本家屋が見えてきた。大家さんはこの家の奥様で、お茶とお花の先生。ご子息2人が早大出身だったので早稲田の女子学生に限って初めて部屋を貸すことにしたとおっしゃる。二階の隣の部屋には、徳島出身で教育学部の洋子さんがすでに入っていた。挨拶をかわした途端に気が合った、彼女はアナウンス研究会に、私は当初の目的通りに役者になるべく演劇研究会に入った。間もなく大家さんの目論見は見事に外れていく。演劇部では門限10時は守れるはずもなく、おまけに次々に福岡の女友達がやって来ては泊まっていく。「うちはお一人にお貸ししたのです」とは、今思えば誠に申し訳ない。3ヶ月後リヤカーにわずかな家具を載せ、滞在中の友人達と鷺宮に移動した。人生で一番大切なのは「友達」だ。今もそう思う。先日徳島の講演会で隣の部屋の洋子さんが訪ねて来てくれた。「変わっていないのね」の一言が嬉しかった。

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第2話 鷺宮
03年8月25日(月)
扇風機使ったのは誰?
父の仕送りの中で借りた鷺宮のアパートは、案の定狭くて日当たりが悪かった。古い木造の平屋アパートで、住人は4人。私以外はOLで、共同トイレに共同洗面所、廊下とトイレの掃除が順番に義務づけられていたが、私はよく忘れて隣のお姉さんに叱られた。早稲田の劇研(演劇研究会)で肉体訓練に疲れて帰る1番の楽しみは、商店街の途中にある喫茶店「ルノアール」で買うケーキだった。が、紅茶を入れてケーキにフォークを入れると、決まって隣のお姉さんが覗きに来る。そして電化製品や服を見回しながら、興味津々で私生活のことを聞いてくるのだ。壁1枚で隔てられたアパートにはプライバシーはないのだと諦めはじめたある日、外泊して帰るとお姉さんが、「昨日、お友達が来ていたわよ」と言う。きっと鍵の在りかを知っている劇研の女友達だろうと部屋を開けると、扇風機が回りっぱなしになっていた。「あ、大変。モーターが焼けきれちゃう」と、羽の後ろに手をやったが、なぜかそこは冷たかった。そこで試しに一昼夜、扇風機を回しっぱなしにしてみたら、やはり火が出そうに熱くなった。一体誰が部屋に入って扇風機をつけたのだろう。それはいつのことだろう。劇研の友達に聞いてみたが、彼女は来ていないというではないか。ゾーっとした。ずっと後になって、別の部屋の住人だった人に「隣のお姉さんは、今入院中よ」と聞かされた。先日久しぶりに鷺宮に行ってみた。「ルノアール」は今も30年前と同じ場所にあったが、あのアパートは跡形もない。隣のお姉さの記憶だけが鮮明に甦ってきたが、お姉さんが鍵の在りかを知っていたかどうかは、今も謎のままである。

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第3話 早稲田
03年8月26日(火)
『誰かを恨んで』演じる
早稲田大学では、11号館の商学部に通ったが、演劇研究会(劇研)の思い出ばかりが残っている。入学式の日に母親連れで入部したので、先輩達には随分過保護に思われたようだ。でも、私自身は学生演劇を学ぶ目的で早稲田を選んだのだから当然のことで、母は何のことだか判らずについてきただけだった。高校時代は演劇とは無縁だった。卓球部に所属して、同じ体育館で発声練習をする演劇部の男の子を鼻白む思いで見ていたのだから人生は分からない。医者になるつもりが、大失恋という驚天動地の出来事で私の将来は大きく様変わりした。先日早稲田に行ってみると、ほんの数枚だけ「立て看」があった。私のいた頃は、校門脇の手摺に所狭しと何枚も重なるようにくくり付けられていたものだ。「劇研新試演会」の看板を見つけた。思わず以前劇研のアトリエのあったところへ入っていく。学バス発着所のすぐ横、大隈講堂裏に部室はあった。劇研木霊を通り過ぎると建物の前で小道具に色を塗っている学生さんが2人。「ここ劇研?」と聞くと建物の1階入り口から垣間見える小劇場を目で指してくれた。雨の降り出したこの場所で、やはり夏の新人公演目指して私たちは小道具や照明作りに励んでいた。鈴木忠志作「劇的なるものをめぐってII」で、一躍アングラのスターになった白石加代子さんの役どころを、私は振り当てられていた。不条理演劇の意味もよく判らずに、とにかくがむしゃらに演じた。疲れがたまって腎盂炎になり病院に通った暑い日々を思いだす。たまたまその試演会を見に来た劇作家つかこうへいさんが「君のは良かったが、誰かを恨んでやっているネ」とおっしゃった。どうして判ったのだろう。そう、私を振った彼をまだ恨みながら演じていたのだもの。

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第4話 信濃町
03年8月27日(水)
優しきスターの置き手紙
早稲田の二年を休学して、文学座の付属研究所に通った。信濃町の駅の側、千日谷会堂の横のビルの一部屋が研究所になっていた。いよいよプロの役者への道が開かれると甘い幻想を抱いたが、集まった50人を見るとどの人もひと癖もふた癖もありそうな存在感を漂わせている。特に目立ったのは中村雅俊さんだった。よれよれのジーンズにTシャツで髪もボサボサだったが、スラリとした長身に垂れ目が印象的な好青年。すぐに女の子達の人気の的になったが、それを横目で見ながら興味なさそうなフリをするのが私という女だ。雅俊さんとは出席簿の順で4人グループを組むことになった。後の2人もその後のテレビで主役を演じたり、舞台で中堅の役者として活躍しているので、このグループはかなりレベルが高かったと自負している。と言っても演技的なレベルというものは、点数で計れるものではない。実に感覚的なもので、その人なりの「らしさの魅力」が求められていた。スタニスラフスーキシステムも、ブレヒトの異化効果も関係ない。雅俊さんは、エチュードの途中で緊張が崩れ、照れ笑いををしてしまっても、指導する先生は目を細めて見ているのだ。頭でっかちの演劇少女だった私は、すっかり自信をなくしてしまった。卒業公演では主役級の役を振り当てられ、それなりに頑張ったが、研修科という上のクラスには残れなかった。一方の雅俊さんは、その年にテレビ「われら青春」の主役に抜擢されスター街道をまっしぐら。1997年、私はある仕事で司会役を務めていた。その日のゲストが雅俊さんで、客席から上がって来た彼は、私の頼みに応じてアカペラで「ふれあい」を歌ってくれた。楽屋に帰ると「今日は会えてうれしかったよ」という置き手紙。スターになっても変わらない人だ。心が温かくなった。

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第5話 西新宿
03年8月28日(木)
劇に理解あった”梁山泊”
文学座の研究生から、中村敦夫が社長の番衆プロダクションの所属タレントになったが、なかなか芽が出なかった。西新宿の新宿警察署の横、現在は一階が銀行になっている地下の居酒屋「秀新」でバイトした。マスターは学生運動にも参加した経験があり、演劇にも理解があったので無理が言えた。突然のオーディションでバイトを休んでも「それは良かった、がんばんな」と励ましてくれた。こんな経営者はなかなかいない。「どうせあてにしていないから」とおっしゃるが、本音半分、マスター流の照れ隠し半分とみた。仕送りで日本舞踊やジャズダンス、歌や三味線の稽古もしていたので、お金がいくらあっても足りなかった。お腹はいつもペコペコ。「飯はいくらでもある。勝手に食べていきなさい」とマスター。お店のおばちゃんに頼んで、味噌おにぎりを作ってもらった。ほかほかのご飯にお味噌をまぶしただけだが本当に美味しかった。その頃は日野市に住んでいたので、帰りが遅くなると、よくマスターの家に泊まらせてもらった。マスターのマンションは店から歩いて5分ほど。いわゆる梁山泊のような暮らしぶり。バイトの子ばかりかマスターの運動仲間もよく泊まって毎晩ワイワイやっていた。ある日マスターの奥さんから「あなた達お風呂に入ったら、髪の毛くらいは捨てておいてよ」と言われた。今もその言葉が耳に残っている。講談の世界に入って最初にやるのが師匠の家のお掃除だ。自分の部屋はゴミだらけでも師匠の家のお掃除はよくやった。それが仕事だと感じたし、修行の一つだとも思っていた。その後、師匠の弟子志望者の中で、大掃除の後、何人か辞めていった。掃除と芸の修行は何の関係もない、と思っている間は芸もたいしたことはない。私も最近そのことが分かるようになった。

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第6話 大久保
03年8月29日(金)
万芸講談の”こやし”に
大久保はわが師匠(二代目神田山陽)が住んでいた街。そして私が15年間稽古に通った街でもある。師匠がよく利用していた文房具店やお蕎麦屋さんには今でも師匠の色紙が飾ってあって、懐かしさがこみあげてくる。大久保の駅に降り立つと、いきなり韓国語のガイドの声が響き渡る。いわゆる新宿のアジア無国籍地帯の一角で、師匠の家の近くにも彼らの住む雑居アパートがあったが、師匠はまったく気にせず話題にもならなかった。師匠と出会ったのは、師匠が69歳で私は26歳の時。大久保の駅側の地下の確か「二条」とかいう喫茶店だった。「講談を知っていますか?」と聞かれ「はい、お三味線を弾きながら語るもの」と答えると「それは浪曲です」と言われ、「あ、富士山の絵が描いてある幕をテーブルにかけて」と言うと、「それも浪曲です」。そこで喫茶店を後に、10分ほど歩いて師匠の家に向かった。紹介してくれたのは師匠の古くからの友人で、舞台の音楽家の先生だ。お宅は古い日本家屋で、そ一階の居間に通されて、師匠は私達2人を前にしながら講談を一席語った。「屋根の上のヴァイオリン弾き」などに端役で出ていた私は、師匠の語る修羅場を聞いて即座に「あ、これは和風ジャズですね」と答えていた。3ヶ月後にデビューしたが、今思えば無謀なことを平気でやっていたと痛感する。高座にタップ板を持ち込んでタップを踏みながら歌って踊ってのミュージカル講談や、日舞を舞う舞踏講談で話題になった。やりたいようにやらせてもらったが、師匠の後押しなしには実現しなかった。「役者では芽が出ませんでした」と言うと「そりゃよかった。そういうことが皆講談の役に立ちますよ」と言って師匠は笑った。「万芸は一芸を生ず」が師匠の座右の銘だ。

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第7話 東高円寺
03年9月1日(月)
風呂渇望 お湯で体拭く
東高円寺には、24歳から37歳までの13年間住んだ。だから苦労の時代から忙しくなるまでの思い出がぎっしりと詰まっている。それまでの日野は、とにかく遠くて不便だった。フジテレビの「夏の家族」というドラマがプロ初仕事だったが、深夜の撮影の時の送りのタクシーでは、いつも私が最後に降りていた。洗面道具を持ち歩いて友達の家を泊まり歩く日々。これではいけないと東高円寺に移り住んだ。初めは東高円寺の駅から5分ほどのS寮というアパート。先日行ってみたら昔そのままに残っていたので「ワー」と声を上げてしまった。一階の奥の部屋だったが、同じように窓格子に傘が数本かけられていた。日野は日当たりが良かったが、ここではそれは望めない。六畳一間に一畳ほどの台所とトイレがあるだけの木造モルタルアパート。当時は番衆プロの看板女優市原悦子さんの付き人をしていた時代で、日中は仕事に明け暮れていたので日当たりや狭さを気にする余裕はなかったが、お風呂だけは困っていた。銭湯の終わる時間に間に合わないことが多かったからだ。仕方なく湯沸かし器のお湯で体を拭いた。講談の方で注目され少し仕事が入りはじめた頃、同じ東高円寺の駅前の1DKのマンションに移った。ユニットバスではあるが好きな時にシャワーが浴びられる。この時ほど嬉しかったことはない。おまけに日当たりもいいとほくそ笑んでいたら、間もなく隣にマンションが建ち始め、あれよあれよといううちに、昼も電気を点けなければならない真っ暗な部屋になってしまった「ああ、私には日当たりは望めないのだ」と半ば諦めの境地。しかし、そのために家賃は上がらないままで、都庁移転の地上げブームで立ち退き料をいただくことになった。人間万事塞翁が馬だ

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第8話 向島
03年9月2日(火)
師匠の見立ては大正解
立ち退き料をいただいたので、それを頭金の一部に、生まれて初めて中古マンションを買った。引っ越し先は、日舞のお師匠さんが方位を見てくれて、東の方がいいというので向島になった。それまでの引っ越しもその師匠のお見立てで時期や場所を決めていた。「ほらご覧なさい、言う通り引っ越せば、ちゃんといい方向が来るのよ」とおっしゃる。全国を回る仕事だから方角は気にしていられないが、こんな時は見てもらえば引っ越しの選択基準になる。「あれ、仕事と結婚が同時ね」と師匠が言うので、結婚はもう諦めて仕事一筋だから家でも買って頑張るつもりだというと、「でも、結婚が出てる。きっといい縁があるわよ」。そのマンションの売買契約に一緒になって走り回ってくれた司法書士の男性が、その後、夫になった。不思議な縁だと思っている。引っ越しは7月で、その1ヶ月後の8月には真打ち昇進の披露パーティーを行った。真打ちになるのは芸人にとって一世一代の大事業で、実はその準備に追われて引っ越しどころではなかった。東高円寺のマンションの立ち退きを要求されても、次を探す暇がなく、住人が引っ越しても一人で住み続けた。決して居座ったわけでではない。ところで、師匠二代目山陽が2000年の10月末に亡くなった後、弟弟子の陽司君が私の門下になった。彼は今年の初め頃から、下宿の大家さんに「建て替えるので出て行って欲しい」と言われ続けていたが、やっと7月に引っ越した。9月には何と真打ち披露パーティが控えている。師匠と弟子の歴史は繰り返されるのだろうか。これも不思議なことだ。ただ、私の場合は立ち退き料をいただいて、陽司君はいただかなかった。この差はバブル前後の景気を如実に反映している。となると、この次は陽司君の結婚ということになるのだが・・・・。

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第9話 上野広小路
03年9月3日(水)
寄席のプロが教えます
上野広小路は寄席の町である。まず講談の定席「本牧亭」が黒門町にある。広小路の交差点角には平成の席亭と言われる永谷浩司さんの「上野広小路亭」が、そして上野駅近くにあるのが落語の老舗「鈴本演芸場」だ。江戸時代の末頃には、二百はあったと言われる講釈場も、今では本牧亭一軒になってしまったが、清水孝子さんが孤軍奮闘、頑張って伝統を守り続けている。「講談が好きなのよね」が口癖。もともとこの辺りの大地主のお嬢様で、品のいい笑顔が私たち講釈師をいつも励ましてくれる。広小路亭では5年前から「カルチャー教室」に力を入れてきた。アイデアマンの永谷さんが考え出した。寄席のお客様の裾野を広げる事と、弟子入りの志願者がひょっとして現れるかも知れないと目論んだ。落語、講談、浪曲、義太夫、手品もあれば、端唄の教室もある。「寄席に出ているプロが教えます」がうたい文句で、私も月に1日、昼夜2回の授業を受け持っている。生徒さんたちはサラリーマン、OL、主婦、アナウンサー、話し方教室の先生、役者の卵などさまざまで、2時間みっちり大声を出す。面白いのは男性はしっとりとした女性の役がうまく、女性は男性の男っぽいタンカがうまい。よく観察していることもあるが、日頃の自分とかけ離れた役を演じる楽しさがあるのだろう。おかげで生徒さんたちは、寄席のお客様にもなってくれるし、もう一つの目的の弟子志望も現れた。私の弟子になった紅葉もその一人。他にも何人かが別の芸人さんの弟子になっている。「見ると聞くとでは大違いですね」とは紅葉の言葉だ。外から見れば華々しい世界でも、中に入れば厳しい。そればかりは教えられない。自分で乗り越えてこそ、本当のプロになれるのだから。

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第10話 向島2
03年9月4日(木)
間近で見た花火の迫力
向島に居を構えることになったのは、日舞のお師匠さんから「東へ行きなさい」と言われた事からだったが、その向島をずっと以前から薦めてくれたのが、親友のオオノちゃんだった。彼女との付合いは文学座の頃に遡るのだからもう30年なる。フジテレビの番組に寄せられた電話を受ける「テレメイト」というバイトで出会ったのだが、東高円寺に住んでいた彼女が子供を連れて実家の向島に戻った頃から、向島の街はグット身近なものになった。「花火が凄いのよ」という。私の花火好きを良く知っていての口説き文句だったが、彼女がFAXで送ってきた中古のマンションは方角もぴったりだった。引っ越しは7月16日。その2週間後の29日の土曜日に、かの有名な隅田川の花火大会を、10階の我が家のベランダから見た。この時の感激は筆舌に尽くし難い。お客様はオオノちゃん親子とマンションの契約に携わった人達が3人ほど。花火の間近さを知っているオオノちゃん親子は、すでにしっかりと隣の部屋のベランダに陣取っている。こちらはそれ程のことはなかろうと、お酒を飲んで談笑していたが、ドカーンと打ち上げの音がした途端「わーっ」と叫んでベランダに走った。眼下に見下ろす桜橋のたもとから打ち上げられる花火が、目の前で大輪の花を咲かせているではないか。その大きさに度肝を抜かれて、そのままぼう然と見入ってしまった。「ね、だから言ったでしょ、凄いって」とオオノちゃん。「うん、ここまでとは思わなかった・・・・・」以来15年、毎年お客様の数は増えて、今年は総勢40名。多い時には50人を越えたこともあった。準備も後片づけも大変だが、1年に1度の我が家のお祭りだ。春は桜で夏は花火。向島には下町の人情がまだまだ残っていて、故郷の博多によく似ている。終わり

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