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    産経新聞の2006年4月2日から2007年3月25日までに連載されたものです
    新聞を読むことができなかった方のために全文を掲載しました。 
其ノ1 其ノ2 其ノ3 其ノ4 其ノ5 其ノ6 其ノ7 其ノ8 其ノ9 其ノ10
其ノ11 其ノ12 其ノ13 其ノ14 其ノ15 其ノ16 其ノ17 其ノ18 其ノ19 其ノ20
其ノ21 其ノ22 其ノ23 其ノ24 其ノ25 其ノ26 其ノ27 其ノ28 其ノ29 其ノ30
其ノ31 其ノ32 其ノ33 其ノ34 其ノ35 其ノ36 其ノ37 其ノ38 其の39 其ノ40
其ノ41 其ノ42 其ノ43 其ノ44 其ノ45 其ノ46 其ノ47 其ノ48 其ノ49 其ノ50


其ノ51 桜の季節
3月25日(日)掲載
30年の節目に感謝感謝
 東京都心で20日、桜の開花が発表された。都心の桜が全国に先駆けて一番乗りしたのは28年ぶりだそうだ。翌日21日、トレッキングの仲間「ヤッホー紅隊」で埼玉県の山に登った。麓の村で桜の花を見つけ、皆でしばし見とれていた。桜の花に一喜一憂するのは日本人ならではであろう。私も隅田川の土手近くに住み、「春は桜」の風情を楽しんでいる。いつも感心するのは、桜が「春」を忘れずに毎年きちんと咲くこと。春になったから桜が咲くのではなく、桜が咲いたから「春」になるのだ。
 ふと自分自身に置き換えてみた。芸人としての年中行事のようなものが私にもある。お正月の初席に始まり、札幌の「将棋祭り」、松が取れたら「端唄の会」と「教室の発表会」。2月は郷里福岡で「金印の会」と「新遊民の集い」。4月は「紅一門会」で、6月は長野県飯田の「郷土講談会」。7月は「城源寺フォーラム」と「隅田川花火大会」。8月は池袋演芸場の「怪談会」、10月は福岡で「独演会」、11月は東京・イイノホールの「ウーマンティナー」で、12月は池袋演芸場の「赤穂義士まつり」。そのほか、飛行機の機内寄席の案内や日本宇宙フォーラムの理事会、映画大賞の審査・・・・。「紅はワーカーホリックだ」とよく言われる。自分でもそう思うが、仕事があるからこそ、病気にもならず元気でいられるのかもしれない。ありがたいことだ。
 21日のトレッキングには珍しく、山で飲むコーヒーの湯沸しを担当する「湯沸し屋三代」が全員集まった。初代のSさんはこだわりのコーヒー豆を持参。二代目は私のホームページの管理人のUさん。三代目は教室の生徒さんのJさん。他のメンバーも長らく私を支えてくれている人たちだ。おいしいコーヒーに舌鼓を打ちながら感謝の気持ちでいっぱいになった。今年は「芸道30年」の節目の年。来月の「一門会」では弟子の陽司紅葉に加えて、京胡奏者のウー・ルーチンさんがゲスト出演してくれる。記念のDVDには、「ここまでこれたのも皆様のおかげです」と記した。
 期待と不安で始めたこのエッセーもはや1年が過ぎ、最終回を迎えた。これを読んで講談に関心を持ってくれた人がいたら、こんなうれしいことはない。これからも感謝の気持ちを忘れず、講談の無限の可能性を求めて挑戦していきたい。だから今度は、寄席に足を運んで「くれない?」って、これぞまさしく「さくら」かな・・・・。
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其ノ50 人生岐路の本
3月18日(日)掲載
心に生き続ける「新子川柳」
 人生の岐路に立った時、1冊の本が自分を救ってくれることがある。「《河口月光17歳は死に易し》という凄い歌を詠んだ川柳作家を知っていますか?この人はホンモノだと思いますよ」
 20年も前の話だが、色々なことが重なり自信喪失していた私に、俳優の故河原崎長一郎さんが手渡ししてくださった本が、今月10日に78歳で亡くなった川柳作家、時実新子さんの『花の結び目』だった。少女時代にいじめられ、17歳で嫁いだ後も夫の暴力に苦しみ、それでも必死で川柳を詠み続けた半生が赤裸々に綴られていた。その壮絶な生き方と、川柳界の異端児としての覚悟のほどを知って、「私の悩みなどまだまだ」と思えたのだ。感謝の気持ちを込めて、新聞のインタビューに「新子さんの川柳は、いつも死と隣り合わせ。しっかりと死を見つめた上で、生の花を咲かせている。誰に何を言われても、自分の命を吐き続ける新子さんの姿に、いつも勇気づけられている」と答えた。
 その後ご本人と手紙のやりとりがあり、翌年、『花の結び目』が文庫本化された際には、あとがきに「身にあまる読後のお便りをいただいた」と書いてくださった。雑誌のエッセーにも「カンダクレナイという響きが美しくて、一度聞いたら忘れられない名前。《わたしから散る散る紅の山茶花》」と自作の川柳を添えてエールをいただいた。この句は彼女のベストセラー『有夫恋』の中にある一句だとすぐにわかったので、「わー、感激!ぜひお会いしたい」と思っているうちに月日は流れ、雑誌や新聞の彼女の川柳エッセーを読んでは「きっとどこか出会える」と勝手に決めこんでいた。本当にあっという間の20年。先月末、某新聞社の取材で「芸道30年を迎える節目の年に、これまでを振り返って、一番印象に残った本は」と聞かれたので、「時実さんの著作を糧にここまできた。《花火の群れの幾人が死を考える》 華やかな花火を見ている人の中にも死を思っている人がいるという落差、はかなさが特に好き」と答えた。
 まさかその10日ほど後に彼女の訃報を聞くことになろうとは・・・・。懐かしいメガネのお顔が本紙にも掲載され、私はしばし言葉を失った。「もっと早くお遭いしておけば・・・」。悔やみつつ、『花の結び目』を読み返してみた。《死顔の美しさなど何としょう》やっぱり凄い。川柳はひとり歩きするものだとおっしゃる。「新子川柳」は、永遠に私の心に生き続けることだろう。
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其ノ49 骨の色気
3月11日(日)掲載
オードリーに見る少女の風情
 NHK教育テレビの「私のこだわり人物伝」という番組で、女優のオードリー・ヘップバーンについて語らせてもらった(4月に放送予定)。私もそうだが、日本人はとにかくオードリーが好きだ。東京の町で彼女のポスターを見ない日はないほど、没後14年たっても愛され続けている。
 私の創作講談の女優シリーズに「マリリン・モンロー」と「オードリー・ヘップバーン」がある。番組では2人を比較して、オードリーの色気を分析する内容になった。私が特に好きなのは、『パリの恋人』のダンスシーン。黒のセーターとパンツ姿で酒場で踊る彼女の動きに注目して、「美しい骨がバネのように跳躍する奇跡。少女期にバレエで鍛え上げた体でなければ、こんなきれいな動きはできません」。さらにこう続ける。「これは”骨の色気”といえるのではないでしょうか。『戦争と平和』でも胸の開いたドレスで“可憐な鎖骨”を見せてくれました。つい骨ばかりを強調してしまいましたが、これは私自身に痩せたい願望が常にあるからでございます」痩身を願う女性に彼女を嫌いな人はまずいないはず。彼女の写真を貼ってダイエットに励んでは失敗を繰り返している一人としては、オードリーは『骨の色気』、マリリンは『肉の色気』と解釈した
 ところで、名匠ビリー・ワイルダー監督は、同時代のこの二人を見事に撮り分けている。「麗しのサブリナ」と「昼下がりの情事」ではオードリーの一途な乙女心を、「七年目の浮気」と「お熱いのがお好き」では、マリリンを可愛い浮気相手に仕立て上げた。その監督が「彼女はたった一人で豊かな胸を過去のものにしてしまうだろう」という名言を残したのだから、マリリンよりオードリーの方が好みだったのかもしれない。対して、「ティファニーで朝食を」では、原作者はオードリーではなくマリリンを主役に推していたらしい。ニューヨークに住む謎めいた娼婦ホリー役は、オードリーのためにラストが書き換えられた。雨の中で猫を抱くシーンは確かに救いがあって彼女らしい。
 「ティファニー」は1961年の作品。その翌年、マリリンは36歳でこの世を去り、3つ年下のオードリーは2度の離婚はあったが、93年に2人の子供と優しい夫に見守られて63歳で生涯を閉じる。どちらが好きかは甲乙つけがたいが、オードリーの体形にはやっぱり憧れてしまう。少年のような少女の風情。骨の色気。”大人になりたくない症候群”は中年になっても変わらない。
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其ノ48 国宝の金印
3月4日(日)掲載
上手に使って郷土に浸透
 国宝は展示方法と使い方でその価値がグンと増す。例えば、私の郷里、福岡市の志賀島で発見された「金印」は、平成17年10月にオープンした九州国立博物館(福岡県太宰府市)の記念特別展「美の国日本」で出展され、長蛇の列ができた。その金印のレプリカを小学生に贈る「小さな博物館運動」のお手伝いを始めてはや10年。去年までに100校に配り、今年は例年の倍の20校と一般の小・中学生50人に贈ることになった。
 贈呈式は毎年、金印が発見された天明4(1784)年2月23日にちなんで同じ日に行われるが、今年は前日の22日だった。会場は福岡市早良(さわら)区の市博物館。引率の先生に連れられて小学6年生とおぼしき児童たちがぞろぞろやってきた。金印については小学6年で習うらしい。みんなが少々緊張気味なので、「クイズを出します。この金印には漢倭奴(かんのわのなの)国王と書いてありますが、これは卑弥呼に贈られた金印である。正しいと思う人は手を挙げて」と言うと、子供たちは首を横に振った。「そうですね。これは卑弥呼に贈られたものではありません。では卑弥呼に贈られた金印には何と書いてあったのでしょう」。そう尋ねると、今度はシーンとして返事がない。しばらくして親御さんの一人が手を挙げて「親魏倭王(しんぎわおう)」と答えてくれた。「正解! でも、その印鑑は発見されていないのです。もし『親魏倭王』が出てきたら、そこが卑弥呼のいた邪馬台国でしょう
 クイズで子供たちの目が輝いてきたところで、「金印発見」の講談を語った。《志賀島の農民、甚兵衛は叶崎(かなのさき)でキラキラ光る印鑑を見つけた。福岡藩の儒学者、亀井南冥に見せると、「こりゃ、『なんでも鑑定団』に出せばスタジオ行きは間違いない」と後漢書に書いてある文献をひもといて解説。西暦57年、後漢の光武帝からやまとの国の王に贈られた印鑑で、「つまみは鈕(ちゅう)というのじゃが、これはヘビを形取った蛇鈕(だちゅう)じゃな」「え?ちゅうって言うけん、ネズミじゃなかと? そうか、蛇にネズミが飲み込まれたとですね」・・・・》地元なまりを入れた講談でどっとうけた子供たち。レプリカを手にして、異口同音に「うれしい」を連発した。最後に「ところで金印の本物はどこにあるか知ってる?」と質問してみたが、みんな首をかしげる。「この博物館の2階にいつも展示されているのよ」。灯台もと暗し。訳知り顔で教えたが、私も知ったのはその日だった・・・。
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其ノ47 明治の義商
2月25日(日)掲載
私利私欲を持たずに大事業
 明治生まれの商人は、私利私欲ではなく、「世のため人のため」という信念を貫いた義商が多い。石油業界大手「出光興産」の創業者、出光佐三もそんな一人。先日、出身地の福岡県宗像市で出光佐三について語らせてもらった。「士魂商才という言葉がございます。武士の魂をもって商売にあたることですが、その志を貫き、社員はみな家族の考えで大家族主義の経営を実践した人物が、ご当地出身の出光佐三でございます」
 明治18年、藍問屋の8人兄弟の二男に生まれた佐三は、神戸高商(現神戸大学)を出て大会社ではなく個人商店に就職する。商売を一から学びたい一心からで、前掛け姿で小麦や機械油を売り歩いたが、やがて実家が倒産、一家離散と色なる。そんな時、佐三が家庭教師をしていた家の主人が大金をくれた。息子を甘やかさずにスパルタ教育で鍛えてくれる佐三を気に入ったからだ。
 その金を元手に明治44年、「出光商会」を門司で創業。店員がたった2人からスタートし、機械油を売り歩いて中国や台湾にも販路を広げた。「もう少し利益を考えてくれ」と頼む兄弟に、あくまで「消費者のための出光で行く」と言い切る佐三。敗戦後はすべてを失い、借金だけが残ったが、「出光の資本である『人』があれば大丈夫」と、1000人の引揚げ社員の首を切らなかった。この時すでに60歳。今ならリタイヤの年に、燃料タンクの底油すくいから再出発する。客席から「戦後無一文になったとは」とか「大金を出してくれたすごい人がおったんやね」といった反応が聞こえてくる。皆さん順調に会社を大きくしたと思われていたようだが、功なり名を遂げた大会社の創業者は必ずや相当な苦労をしている。そこに焦点を当てダイナミックに語るのが、講談の醍醐味でもある。
 現在は「電力の鬼・松永安左衛門」を創作中。こちらは九州の電力王で、戦後、GHQの統制化に電力再編成の大事業を成し遂げた人物。その時74歳。電力の民営化を訴え、電気料金値上げも断行して「鬼」と呼ばれたが、すべては日本の復興にかける信念から。明治8年の生まれで、95歳まで現役だった。佐三も95歳の長寿だったのをみると、私利私欲を持たず高い理想と信念を貫けば、長生きできるということにもなる。明治生まれに義商が多いのは、江戸時代からの武士精神がまだ残っていたからだろう。
 翻って現代の経営者はどうだろうか?明治人の気骨も「時代錯誤」で片付けられそうな気がした。
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其ノ46 鬼の角
2月18日(日)掲載
「支援者獲得」は皮算用?
 季節ネタと言っているものがある。その季節にしか語らない演目で、例えば「節分」の前後は泉鏡花の『鬼の角』。今年は1日遅れの2月4日に、東京・台東区は黒門町の「本牧亭」で演じてみた。料理屋さんの座敷を片付けて20人ほどが入る客席を作る。床の間のような2畳ばかりの舞台で、お客さまの顔は目と鼻の先。お互いに目と目を見つめ合う格好になるので最前列の人は常に頭を下げているが、「本牧亭は講談定席。ここで見るのがツウだ」と言ってくれるご常連の言葉がうれしい。
 ネタのおさらいをしていて遅くなり、楽屋入りした時はちょうど仲入り。外で一服していた支援者のFさんの一行に出会った。私自身の公演などでお世話になっており、日本講談協会の機関誌「J−Kodan」を資金面で支えてくださるスポンサーの1人。支援の継続をお願いすると、快諾してくださった。いよいよ幕開き、といっても合図はなく、いきなり舞台の脇の襖を開けて演者が講釈台の前に座る。都内にいくつか寄席があるが、多分ここが一番小さいだろう。寄席評論家で小説家だった安藤鶴夫が直木賞を受賞した「巷談本牧亭」の舞台になった縁の場所だが、何カ所か移転した後、規模を縮小して今の所に落ち着いた。
 『鬼の角』は泉鏡花が21歳の時、「畠芋之助」のペンネームで少年向きの雑誌に書いた作品。今では原文入りの講談として演じている。節分の夜、商家のご隠居と小僧が家路を急いでいて赤鬼にぶつかる。鬼は角を落としてしまい、それをご隠居が拾ったから大変。赤鬼は優しい鬼に、ご隠居は鬼のような爺さんに変身して、鬼界と下界で大騒ぎに。結局、鬼の奥さんが現れ、「『夫に角を返さぬか』。玉散る剣を額にかざし星眼鋭くはったとにらめば・・・・老人は角を返しける。見よ老人がその本性に帰着せしは、鬼の角を棄てしによるを」で、一件落着となる。
 終演後外へ出ると、数日前地下鉄で声をかけてくれたSさんが待っていた。「講談が大好き」とのことで、公演をお知らせしていたのだ。Sさんも一緒に近くで打ち上げ。ご常連が「今年も『鬼の角』が聞けてよかった」と喜んでくれたので、「今日は自分も角を拾ってみました」と私。どんな角かと尋ねる面々に、「Sさんという角がサポーターに育ってくれたら有り難い!」と答えた。と、ご常連の1人が「そりゃぁ、鬼じゃなくて狸ですよ」。すかさずみんなが声を合わせて、「とらぬ狸の皮算用!」。お後がよろしいようで・・・。
(本文では2月4日になっているが、実は本人の思い違いで11日でした)
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其ノ45 まことの花
2月11日(日)掲載
極めてなお精進の千両役者
 東京・東銀座の歌舞伎座で先日、「仮名手本忠臣蔵」の昼夜通し狂言を見た。今月は尾上菊五郎中村吉右衛門松本幸四郎らの豪華な顔ぶれで、歌舞伎3大名作の一つといわれる演目を堪能した。特に印象に残ったのが、夜の部の七段目「祇園一力茶屋の場」お軽(坂東玉三郎)と、兄の寺岡平右衛門(仁左衛門)。六段目のお軽は地味な出方だが、七段目では見事に遊女に変身。上手2階の部屋の後ろ姿からお軽が振り向くと、会場全体から「ホーッ」というため息がもれた。
 郭遊びに興ずる大星由良之助(吉右衛門)のもとに密書が届く。人目を避けて読んでいると、2階のお軽は鏡を使って密書をのぞき、床下では敵方に寝返った斧九太夫が盗み読んでいる。気づいた由良之助は「お軽を今夜身請けする」と言い出す。口封じにお軽を殺す意図を察した平右衛門は、「ならば兄の手にかかってくれ」とお軽を説得するのだが、仁左衛門が登場すると、後ろのおばさまが「まぁ、相変わらずいい男ねぇ」と声を上げた。思わず私も「本当ですねぇ」と返したくなったが、とにかく衣装がよく似合う!
 平右衛門は、赤穂義士の寺坂吉右衛門がモデル。身分が低いが、手柄を上げて義士に名を連ねたいと願っている。兄から父と最愛の夫、早野勘平(菊五郎)が死んだと聞かされたお軽は、ショックのあまり持病の癪を起こす。ここで絶望と癪の苦しさが一体となって身体をくねらせる玉三郎の動きが素晴らしい。芝居と踊りが融合され、一分の隙もないのだ。一方、由良之助に討ち入りに加わることを許された平右衛門は諸手を上げてはしゃぐが、その様子が初々しく、仁左衛門は二十歳の少年のように見えた。
 お二人の年齢を調べると、玉三郎さんは今年で57歳、仁左衛門さんは63歳。仁左衛門さんは確か大病をなさったはずで、それでいてあれだけの身のこなしができるのはすごいの一言に尽きる。ふと世阿弥の『風姿花伝』を思い出した。「年来稽古條々」四十四、五の項に、「何としても、よそ目、花なし。もしこのころまで失せざらん花こそ、まことの花にてはあるべけれ」とある。外面的な美しさの消える年ごろになっても、失われない花があれば、これこそ「まことの花」なのだ。このところ何かと若手が話題にされる歌舞伎界だが、芸を極め名声も得て、さらに精進を続けておられる姿には心から感動した。と同時に、なまくらになった自分の身体を見て、「こりゃいかん」とつくづく反省した。
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其ノ44 花に寄せて
2月4日(日)掲載
「人」を極めた・・・留学生
 花は散るからこそ、咲いているときが美しい。その美しい瞬間をより生き生きと印象づけるのが、生け花だ。先日「古流松藤会90周年」で創作講談を語らせてもらった。これまであまり縁のない世界だったが、触れてみるとなるほど奥が深い。江戸中期に盛んになった生け花は、旗本や御家人が師匠になろうと懸命だったというから、刀をはさみに持ち替えての修業である。
 今井宗晋を祖とする古流松藤会は現在、全国に60支部を持ち、正会員は1万人を数える。会を今日の姿に育て上げた女傑、三世池田理英の戦後の苦労や華々しい活躍ぶり、息子の四世と現在の五世家元のなれそめなどを「講釈師、見てきたように」語った。もちろん、少々の脚色はご本人の許しがあれば大丈夫。五世家元は8年前、夫だった四世の急逝で人生が一変。「とにかくまわりの皆様のおかげでここまできました」と謙虚におっしゃる。おおらかで背筋の伸びたステキな女性だ。何事も「道」を極めることは「人」を極めることだとつくづく思った。
 さて、その翌日は話題の映画「あなたを忘れない」を見に行った。2001年1月26日、JR新大久保駅のホームから転落した男性を助けようとして、命を落とした韓国の留学生イ・スヒョンさん=当時(26)=の物語。天皇、皇后両陛下がそろって試写会においでになったこともあり、会場には中年女性や年配者の姿も多かった。冒頭のシーンは、駅のホームに手向けられた白い花束から始まる。花びらの一つが風に飛ばされ、線路にヒラヒラ舞いおりてストップモーション。ホームにいるのは彼の恋人のユリ。彼女は歌手を夢見る日本人のストリート・ミュージシャンだ。あの事故当時、誰もが「自分ならどうする」と考えたのではないだろうか。私もそうだったが、自分には線路に降りる勇気などない。では、瞬時にそんな行動がとれるスヒョンさんとは、一体どんな人生を送ってきたのだろう…・と、ずっと気になっていた。
 映画は、韓国と日本の間にいまだに残る敵愾心や、親子・家族の問題に焦点をあて、重くならずにフィクションとして描いていた。結果が分かっているだけに途中、何度も涙が出た。他人のことは見て見ぬふりの日本人が増えている。私もその一人か。今でも新大久保駅のホームには花が置かれていると聞く。私も花に添えて「ありがとう」を言いたくなった。
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其ノ43 紅塾発表会
1月28日(日)掲載
教え教わり互いに充実
 「1億総タレント」といわれて久しい。最近はシニア劇団が話題になっているし、年齢に関係なく、観客でいるより「やってみたい」と思う人が増えていることは確かだ。東京・上野広小路にある寄席「上野広小路亭」で、「お江戸演芸スクール」が始まってはや8年。落語、講談、浪曲、奇術、義太夫などをプロの芸人から教えてもらうのが”売り”の演芸教室だ。
 20日の土曜日は年に1度の4教室合同の発表会。私の「紅塾」からは21人が参加した。1年の勉強の成果を日ごろ観客として見ている舞台で発表するのだが、緊張の中にも喜びの笑顔があふれていた。12時開演で19時半終演。私は舞台の袖に陣取ってハラハラドキドキ。わが子を見守る母親の心境で、7時間半があっという間に過ぎた。1人12,13分の持ち時間で、内容や語り方は自由。演目の時代解説をする人や自作の講談の登場人物を表に書いて説明する人、歌を枕に歌う人など、紅塾生は実にバラエティに富んでいる。
 そんな中、今年の発表会のトリは、数年前からTさんの「特攻悠久隊」に決めていた。85歳になられるTさんは戦時中、特攻機の誘導などをした陸軍航空士官学校55期生。ご自身も九死に一生を得、戦後、民間会社のパイロットを経て、退職後はボランティア活動の日々だ。数年前にくも膜下出血に襲われたが、この時も見事生還。リハビリを兼ねて講談をやり始めた。「特攻隊を知る者の一人として、命ある限り語り継いでいかねば」と意気軒昂で、生徒さんたちの「長生きの目標」でもある。
 「時は終戦3ヶ月前の知覧飛行場。荒木春雄少尉は、21歳の若武者。一式戦闘機隼に乗って、自ら悠久隊と名乗り、6名の部下を率いて沖縄の敵艦船に突入…」と始まるオリジナル講談。緑色に塗った厚紙の戦闘機を手に、身振り手振りで語るのだが、何度聞いても説得力があって涙が出る。「来年は荒木少尉のエピソードをもう少し付け加えましょうね」とアドバイスすると、「はい、よろしくお願いします」とTさん。いくつになっても「学ぶ」ことに謙虚なTさんには、頭が下がる。
 生徒さんの中にはプロ並みに上手い人もいる。プロとアマの違いは、それを「生業(なりわい)」にしているかどうかだろうが、「見ているだけ」より「やってみる」方が、人生はより豊かになるはずだ。そして私も、生徒さんたちの新鮮な語りに大いに触発され、「教えることは教わること」を実感している。
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其ノ42 黒田節
1月21日(日)掲載
団塊社長の心憎い演出
 今年最初のこの連載でも触れたが、1月はあちこちで九州・博多の民謡「黒田節」の由来となった「毋里太兵衛(もりたへえ)」を語っている。私のホームページにも、団塊の世代である常連のKさんが「お正月の講談はやっぱり黒田節」と書いてくれたので嬉しくなり、講談定席の「本牧亭」(東京・御徒町)でも一席語った。
 先日、福岡の電気設備会社の新春講演会に呼ばれたときのこと。関連会社の来賓500人に混じって最前列に新卒予定の新入社員15人ほどが、出身大学を明記した名札を胸に座っていた。みんな背筋を伸ばして清々しい好青年だ。「ご当地福岡で有名な民謡・黒田節の由来の物語を語ります。毋里太兵衛の名前はご存知ですか?黒田節は?」こう尋ねたところ、青年たちは目を丸くして、首を横に振るではないか。「えっ、知らないの?お隣は?」・・・結局誰も知らないことがわかり、会場中に「うぉーっ」という驚きの声が上がった。私の中では幼少時から、博多というと「黒田節」。宴会ではだれかが歌い、だれかが踊る。結婚式で、手締めは「博多一本」と相場は決まっていた。「こりゃいかん」。若い世代の”惨状”に、さっそく黒田節を歌ってみる。「酒は飲め飲め、飲むならば、日本一のこの槍を、飲み取るほどに飲むならば、これぞまことの黒田武士」…。50代以上のお客さまは一緒になって歌ってくれるが、新入社員たちはきょとんとしたまま。
 思えば、iPodなど今や音楽業界はネットが主流。好きな曲を選んで1人で聴き、歌うのはカラオケボックスで好きな歌だけ。嫌いなジャンルに耳を傾ける必要はなく、触れる機会もないのだ。これでいいのか!持ち前の「老婆心」がムクムクと頭をもたげ、「あのね、福岡なんだから英語の勉強より黒田節くらいは知っててよね」。熱をこめて語り始めた。黒田長政の家臣、太兵衛が大酒を飲み干した褒美に、槍の名手広島城主福島正則の家宝の槍「日本号」を所望する辺りになると、彼らの目が輝いてきた。聞き終わって感想を聞くと、口々に「おもしろかった」と返ってきた。
 少しは郷土の歴史の役に立てたかと思うが、来賓から「黒田節を知らないとは驚き」といわれ、「ご時世ですよ。だから講談を語る意味があるんです」と私。新入社員を最前列に並べたO社長も心憎い。聞けば社長も団塊世代。最近、日本文化が見直された感があるが、この世代のおかげかも、と思った。
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其ノ41 新春将棋まつり
1月14日(日)掲載
講談師だけに高段者?
 さっぽろ東急百貨店での「新春将棋まつり」は、今回で34回を数える。将棋のイベントとしては全国でも最長寿の一つで、デパート創業の初正月から始まったとのこと。今年も4、5日の2日間、9階の催事場は北海道中から集まった将棋ファン600人でいっぱいになった。席上対局などに招かれた7人の棋士は強者(つわもの)揃い。森内俊之名人矢内理絵子女流名人、一昨年アマからプロ入りを果たして話題を集めた瀬川晶司四段山崎隆之七段らを青野照市九段が率いている。
 私はというと、大盤解説の聞き手をやらせてもらうようになって早16年だが、いまだに棋力は初心者のままだ。将棋を覚えたのは20年ほど前、映画の海外ロケで。これを聞いて喜んだのは、アマ六段の腕自慢だったわが師匠の二代目山陽だった。「さっそく雑誌の紙上対局をお願いしてきたよ。6枚落ちで、相手は大山康晴十五世名人だ」「ひょえーっ!」思い出しても冷や汗が出るが、札幌でも十五世名人とは何度かご一緒させていただいた。気配りも名人級で、思い出はたくさんある。
 さて、最初の席上対局は森内名人山崎七段で、「お年玉をもらった気分。公式戦はこうは行かない」と勝った山崎七段。20代半ばのさわやか”イケメン棋士”で、女性ファンが多いのもうなずけた。矢内女流名人瀬川四段の対局も見応えがあった。中盤は矢内女流名人の優勢に見えたが、最後は瀬川四段の勝ち。観客の目も、26歳でプロを諦め35歳で再挑戦して夢を実現した瀬川四段の指し手に注がれているようだった。「サラリーマン時代と収入の差は?」との質問に、「昨年はいろんなところに呼んでいただいたのでアップしましたけど、これからは勝たねば」と謙虚。「後は、お嫁さん待ちですね」と私が言うと、細い目で笑った顔がすごく優しい。プロへの道を切り開いたのは、彼の人徳によるところも大だったのだろう。
 大局の後は私の講談。お客さんは50、60代の男性がほとんどだが、小学生の姿もチラホラ。すっかり顔馴染みになって講談も聞いてくれるのだが、「師匠の棋力は?」と質問されて「えーと…」。返事に窮していると、「講談師だけに高段者」と客席から助け舟。外は寒いけど、北海道の人情は温かい!「来年こそ強くなって」と毎年思うのだが、将棋はそう簡単には上達できない。だからこそ面白いし、棋士の皆さんの個性にも興味が尽きないのだ。
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其ノ40 一年の計
1月7日(日)掲載
芸道の節目の年を悔いなく
 「一年の計は元旦にあり」で、お正月の芸人は大忙し。元旦は大晦日に美容院でセットした髪に花飾りを付け、黒留め袖に鳳凰の帯。ショールだけを羽織って、旅行かばんに手拭いを詰め、一路池袋演芸場へと向かった。所属する落語芸術協会の正月興行は、落語家を中心に講談、漫才、奇術、太神楽などの芸人約50人が入れ替わり立ち替わり出演する。持ち時間は1人7,8分のあわただしさだが、客席はほぼ満員だ。楽屋も過密状態。芸人同士の手拭い交換の挨拶が一段落すると、立って出番を待つ。やっと舞台に出ると、こちらの方が広々としているのでホッとするのがおかしい。
 語ったのは、年始恒例となった「母里太兵衛(もりたへえ)」の一席。郷里である九州・博多の民謡「黒田節」の由来になった物語だ。黒田長政の家臣、母里太兵衛が、槍の名手の広島城主、福島正則のもとに使者に遣わされ、勧められた大酒を飲み干した褒美に、家宝の名槍「日本号」をもらう。ところが、太兵衛は酔って肝心の口上を忘れてしまい、「ここから言うようになったんですね、やりっぱなし」とまとめる話。元々25分の話を8分で語るのだから無理がある。それこそ「やりっぱなし」の高座になってしまったが、お客様のニコニコ顔を見て、「お、今年は景気が良さそう!」お席亭(経営者)に新年のご挨拶をして、ロビーで待つ弟子の紅葉に荷物を持たせ、末広亭、広小路亭、本牧亭、浅草演芸ホール、木馬亭と東京中の寄席を回る。
 夜は我が家で新年会。親友のT子が「百人一首で源平合戦をやろう」と言い出し、勝ったグループと個人には賞金を出すことになった。すかさず弟子の陽司が「むすめふさほせ、ですね」と目を輝かせた。読み札の最初が「む」の歌は、「村雨の露もまだひぬまきの葉に」の一首だけで、下の句の「霧たちのぼる秋の夕ぐれ」がすぐに取れるところから、「一字決まり」と言われている。それが「むすめふさほせ」の7首あるということ。「お主できるな」と思わせた陽司だったが、一番多く取ったのは弟子の。「ちはやぶる」と読めば素早く「からくれなゐ、ですね」とすぐに反応した。落語の「千早振る」でお馴染みの一首。「前座をやっていてよかった」とうれしそう。私はというと、「はい」と取る声だけは威勢がよかった。今年は「芸道30年」の節目の年。かけ声だけに終わらぬよう、「やりっぱなし」にしないことを心に誓った。
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其ノ39 宇宙と浮世
12月24日(日)掲載
地上は痴情ばっかり
 日本のロケットの歴史は決して華やかではないが、このところ確実に成果をあげている。今年1年でH2Aロケットは4機、去年から数えても5機連続の成功は快挙だ。以前にも触れた通り、私は「日本宇宙フォーラム(JSF)」の理事を仰せつかっており、種子島に打ち上げを見学に行ったことがある。残念ながら、その時は天候の不具合で延期となってしまい、悔し涙を流したのだが・・・。で、今月18日の打ち上げは、「宇宙航空研究開発機構(JAXA)」の実況放送で見せてもらうことにした。午後3時すぎ、東京・大手町にあるJSFの会議室に入ると、テレビの大画面の前に関係者や三菱重工業の皆さんが集まっておられた。来年から衛星の打ち上げは同社に移管されるそうで、「ここも民営化ですね」と私。H2Aの先端に搭載された技術試験衛星「きく8号」について、小型携帯端末を使った災害時の衛星通信システムなどを実験することを教わっているうちに、「紅さん、そろそろウオーターカーテンですよ」と声がかかった。これは、ロケット発射時に周囲に火災が起きないようにするための放水のこと。まもなく、静かに「そのとき」を待っていたH2Aロケット11号機の下部にある4本の固体ブースターから、モクモクと煙が上がり始めた。「5,4,3、・・・」。秒読みに続いて「ゴーッ」という音とともに、全長53メートルのH2Aロケットは重い機体を一瞬持ち上げたかと思うと、一直線に上空へ。アッという間に雲の中に消えていった。テレビ中継でも打ち上げの迫力はすごい。「うわぁー」。思わず感嘆の叫び声を上げると、拍手が会議室に響き渡った。だが、ロケットの使命は打ち上げ成功で終わりではなく、衛星を予定の軌道に投入しなければならない。全員、固唾をのんで画面を見守っていると、固体ブースター、第1エンジン、第2エンジンが次々と分離され、最後に「きく8号」が見事に宇宙空間に放たれた。これから日本の上空3万6000キロで試験衛星として活躍してくれることを思い、雄大な気持ちになってJSFを後にした。ところが、駅の売店で目に入った新聞の見出しには「税調会長の醜聞」や「ふぞろいの秘密、初体験は」といった文字が並んでいて、ガックリ。「きれいな宇宙と違って浮世は汚れているなぁ。地上だけに痴情ばっかり!とはしゃれにもならない。1人でぶつぶつ言いながら、すっかり興ざめしてしまった。
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其ノ38 記憶との闘い
12月17日(日)掲載
「義士に負けぬ」必勝誓い
 寄る年波かこの頃、記憶力の衰えを感じるようになった。講談はもともと「読んで」聞かせた芸だから台本を置いても良いのだが、できるだけ本なしで語りたい。「世話物」のような物語なら筋を追っていけばよいのだが、講談独特の立て板に水の「修羅場」になると、理屈抜きに丸覚えしなければならない。文句がスラスラ出てくるようになる、つまり「手に入る(はいる)」までが産みの苦しみで、年々時間がかかるようになってきたのだ。12月の池袋演芸場中席(11〜20日)は、恒例の女流講談師による「赤穂義士伝」。数日間トリを務めさせてもらい、今年はおなじみの話の後に「寺坂の口上」を付け加えることにした。大石内蔵助の命を受けた寺坂吉右衛門が、仇討ちの模様を語る5分の修羅場で、「言いたて」が続く有名な講談。「舞台初披露のネタおろしでトリとはキツイなぁ」と、ドキドキしながら楽屋に入った。舞台を終えた落語のS師匠が台本を手にしている私を見て、「新しいネタ?」と声をかけてくれた。「はい、まだ充分に手に入っていないんです。この頃覚えるのに時間がかかって・・・」と不安を打ち明けると、「わかるよ、俺もそう。でも、講談は本を置いてやっていいんだろう」とおっしゃった。「ええ、でもできるだけ置かないように・・・」。そのときはそう答えたのだが、いざ出番になると、師匠の一言が気になっていたのか、いつもは持たない台本を講釈台の下に忍ばせて臨んだ。まずは「大高源五」の一席。煤竹売りに身をやつした大高源吾が、俳諧師の宝井基角と両国橋で出会い、句のやりとりをする場面を語り終え、「さて、いよいよ討ち入り。その模様は寺坂の口上にて」と切り出した。「さてもその夜は極月14日、夜討ちの勝負はかねての計略・・・」と初のうちはよかったのだが、「村松、吉田が1番に、2番は岡島、不破、小野寺・・・」と人名を並べるところで2度も詰まった。こうなると修羅場のリズムが台なしだ。とっさに台本を取り出して後を続け、何とか語り終えたが、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。「大高源五の講談もネタおろしの当時はヒヤヒヤだった。今度もそのうち十八番になりますよ」と常連のお客さんは慰めの声をかけてくれたが、「義士は吉良上野介と闘った。私は記憶力との闘い。負けないぞ」と心に誓った。年の瀬に、歳のせいにはしたくない!
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其ノ37 病気と同窓会
12月10日(日)掲載
身体の休養 心のの休養
 いつも食欲旺盛で元気な私だが、鬼の霍乱とでも言おうか、先日夜中に突然、嘔吐を繰り返し、七転八倒の苦しみを味わった。医者に行くと、「たぶん、ノロウイルスでしょう」との診断。「ノロ?何それ?」さっそく調べてみる。1968年に米オハイオ州ノーフォークの小学校で集団発生した急性胃腸炎のウイルス名で、地名をとってノーフォークウイルスと呼ばれていたが、2002年に国際ウイルス学会で「ノロウイルス」と命名されたそうだ。「へー、40年も前からある食中毒のウイルスか。ノーウオーク(歩かない)から、ノロね」と芸人の性(さが)で何でもこじつけて覚える。それにしても、一体どこで感染したのか思い当たる節はまったくなかった。
 「5日ほどでよくなるでしょう」医師の言葉通り、ほぼ回復したので、5日目の夜に高校の同窓会に出席した。私は福岡県の県立修猷館高校の昭和46年度卒業生。46にちなんで「よかろう会」と呼ばれている。当日集まったのは、東京近辺に住む27人(うち女性4人)。六本木の倶楽部ですき焼き鍋を囲んで和気あいあい。高校卒業以来、約36年ぶりに会う懐かしい顔もあった。同級生というのは不思議な存在だ。普通の友達以上・兄弟未満。家族ではないが、赤の他人でもない。同じような環境で育った同族意識のようなものがあって、とにかく頼りになる。
 「紅は定年がなくていいな」と誰かが言った。50代も半ばにさしかかると、サラリーマンは"終着点"を意識するのだろう。「なんばいいよっと。講談界では私なんかまだ中間管理職。寄席の出演交渉や連絡などの下働きもやっているし、毎回必死で切符を売っているのよ〜」と答えると、「そりゃ大変だ」と来年の独演会をみんなに呼びかけ、予約まで集めてくれるから有り難い。鍋が一段落した後はそれぞれの近況報告だが、やれ「心筋梗塞になった」「糖尿病だ」「ヒザが老化現象」・・・。年齢的にどうしても身体の不調の話題になるのだが、会話は楽しく弾む。私もすかさず「ノロにやられた」と報告した。
 お開きで幹事のK君が「70になっても『東京よかろう会』の幹事をやっているから、みんな来てくれ」と言うと、全員から拍手がわいた。負けじとG君が「Kの後は俺が継いで80までやるぞ!」と気勢をあげると、今度は大きな笑いが巻き起った。多忙だったこの1年、ノロで身体を休め、同窓会で心の休養をとらせてもらった。
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其ノ36 江戸ブーム
12月3日(日)掲載
吉原に学ぶ芸者魂と貨幣価値
 ここ数年、「江戸ブーム」といわれる。確かに、東京で生活しているとその手応えを感じることが多い。客席にお客が入るようになったし、着物姿も目につく。「江戸」に子育てや経済問題を学ぼうという風潮も悪くないと思う。長屋に暮らす庶民は貧乏だが助け合いの精神があり、いじめなどを問題にする必要もなかったはずだ。先日、マネー講談を作ることになり、江戸に関する事典をパラパラとめくってみた。1両の価値を講談では10万円くらいといっているが、時期によって大きく変わる。文化文政のころは1両で大人一人の1年分の米が買え、3両あれば独身男性が1年間生活できたそうな。そば・うどんは375杯、風呂屋は750回とあるから、(そばを500円、風呂屋は430円として)1両はざっと20万?30万円といった感覚か。おもしろいところでは、吉原の太夫の揚げ代0.6回というのがあった。太夫を1晩呼ぶと、なんと33万?50万円。あまりの高さに驚いた。吉原といえば、「吉原芸者」が今でもたった一人残っておられる。私の所属する女流芸人グループ「大江戸小粋組」に、お座敷遊びを教えに来られる「みな子姐さん」だ。お年は「大正8年生まれ、数えで88歳」。12歳で半玉、17歳で1本。常盤津の名取で、今でも髪を粋に結って三味線を弾き、吉原のお座敷芸や木遣りを教えてくださる。「吉原芸者は戦後12人残っていたけど、今は私だけ。男みたいだったからやってこられたのね」。さばさばした気性が心地よい。先月29日の「大江戸小粋組」第3回公演では姐さんもゲスト出演、応援団長の永六輔さんとのかけあいトークが人気を呼んだ。公演前日は11月3度目の酉の日となる「三の酉」だった。江戸時代から三の酉がある冬は火災が多いとされる。そこで、「おとりさま」と親しまれ、酉の市が開かれていた浅草の鷲(おおとり)神社にお参りされたか尋ねた。「いーえ、もうさんざ行ったからね。それに吉原に住んでいるから、鷲神社の境内にいるようなもんだもの」。うふふ・・・と笑った顔が少女のように可愛らしい。私はその夜遅く、親友と鷲神社に向かった。大賑わいも落ち着いており、ゆっくりお参りできた。帰り際に大きな熊手が目に留まった。おたふく顔の周りに1両小判がキラキラ輝いている。「おじさん、それいくら」「奥さんの月給くらいだ」さて、どうしよう。1両の価値と同じで、私の稼ぎもずいぶん変動するのよね・・・。
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其ノ35 ご当地もの
11月26日(日)掲載
郷土意識ゆえの難しさ
 「ご当地もの」と呼ばれる物語がある。それぞれの土地に縁りの人物や出来事などを読み込んだ創作話で、郷土意識をくすぐるとあって最近、リクエストされることが多くなってきた。だが、このご当地もの、演じる側には結構難しい。私はなるべく縁りの人物を「いい人」として語ることにしている。というのも、過去に苦い経験があるからだ。
 数年前、兵庫県赤穂市であったイベントで、関東と関西の講談師が競演したときのこと。前年の1回目に古典講談が好評だった私は、翌年も呼んでもらった。「今度は新作でいこう」と張り切って、敵役の吉良上野介を良い殿様に、浅野内匠頭を癇癪持ちの殿様に解釈した『吉良の言い分』(岳真也原作)を語った。こんな見方もあるという認識だったのだが、途中で客席から「もういいよ!」と声が上がった。一瞬頭が真っ白になり、あとはシドロモドロ。途中から古典講談に切り替えて、何とか舞台を降りた。ショックだったが、考えてみれば聞く方の気持ちももっともだ。世間で「吉良にいじめられ抜かれた末の刃傷」として通り、"お国自慢"である『忠臣蔵』で、わざわざ郷土の殿様の悪口を聞きたいはずもない。以来、ご当地ものには神経を使うようになった。
 教訓は福岡県飯塚市で先日、新作の『柳原白蓮』を語った時に生きた。これまで福岡、東京と演じる場所で内容を微妙に変えてきたが、飯塚は白蓮が10年間嫁いだ炭坑王、伊藤伝右衛門の故郷だ。今回は、敷地が2300坪もある伝右衛門の大邸宅が来年4月に一般公開されるのを前に、地元法人会が「筑豊の文化を講談で語る」として開催。白蓮が過ごした2階和室もそのまま残されており、タイムリーな演出といえる。問題は地元の誇りの伝右衛門白蓮には敵役になる点。そこで、「伯爵家の令嬢をもらって箔を付けたかったという説もありますが、相手は大正天皇の従姉妹様。『お上の命令だから引き受けるほかはない』伝右衛門は律儀に考えていたのではないでしょうか」とアレンジした。
 実際、伝右衛門は技芸女学校や奨学金制度を作り、地元に貢献しているのだが、「英雄色を好む」点だけは強調させてもらった。あちこちに女がいたとしなければ、白蓮が恋人の宮崎龍介と出奔する必然性がなくなるからだ。だが、さすがは、泥試合になるのを避けるため白蓮の"裏切り"にも沈黙を守った伝右衛門の出身地。その辺りの表現も太っ腹で受け入れてくれたようだ。「講釈師見てきたような嘘」は言いたくないが、少々の誇張や協調はお許しあれ!
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其ノ34 見るマナー
11月19日(日)掲載
この親ありて、この子あり
 最近の寄席には子供連れのお客さまが増えてきた。「子供にも見せたい」という気持ちはうれしいが、かといって子供が騒いでも対処できない親では正直困ってしまう。東京・隼町の国立演芸場で先日トリをとらせてもらった。当日は「特選演芸会」で貸し切り。仲入りの少し前に楽屋入りして舞台の袖から客席を見ると、一番前の端の方の席に小学校低学年か幼稚園とおぼしき姉弟が2人座って、足をブラブラさせていた。舞台では落語の林家たい平師匠が出演中で、「子供さんも親の付き合いで大変ですよねー。でもお客さまにするならお母さんよりお子さんの方が、この先長く生きますから・・・」と笑わせていた。
 私は少し不安になった。というのも、「赤穂義士伝」の中から「南部坂雪の別れ」を語るつもりでいたからだ。これは「女達の忠臣蔵」として有名な物語。大石内蔵助が主君、浅野内匠頭の未亡人の瑶泉院の元を四十七士の血判状を持って訪れるが、間者の気配を察知して本心を明かせない。瑶泉院に「不忠義者」とののしられながらも、仕方なく持参した文を戸田の局に渡して淋しく立ち去る。その夜、文が血判状であることがわかり、瑶泉院は「自分は何ということをしたのか」と涙にくれる・・・。四十七士の名前の読み上げが聞かせどころで、子供が騒げば集中できない。ネタを変えようか、出番の直前まで迷った。というのは最近、別の会場で新作発表した際、聞かせどころで何度も子供が騒ぎ、ヤマ場が台無しになってしまったのだ。以来、幼児の声がトラウマになっていた。
 いよいよ後半の部に入り、私の出番になった。「ええい、ままよ」。清水の舞台から飛び下りる覚悟で初志貫徹。義士の枕を振り、一気に「南部坂」に入っていった。会場はそれまでの掛け声も消え、シーンと静まりかえっている。心配した子供はまったく騒ぐ気配もなく、無事に四十七士の読み上げは成功。満場の拍手を浴びて袖に引っ込むと、どっと汗が出た。楽屋口から外に出ると、さっきの子供を連れた一団とすれ違った。私が「ありがとうございました」と声をかけると、お母さんらしき人が子供を促して、一緒に「ありがとうございました」と返してくれた。「あぁ、この親にしてこの子あり」。端の方に座っていらっしゃったのは、子供がグズればいつでも退場しようと思っておられたのだろう。そうあってほしい。子供の教育をうんぬん言う前に、まず親のマナーが大切だとつくづく思った。
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其ノ33 ウオーキング
11月12日(日)掲載
あれれ?同距離で2万歩差
 私のトレッキングサークル「やっほー紅隊」は毎月1回を目標に7年間続けてきた。しかし、この半年は仕事の都合などでお休み。おかげで体重は増え、筋肉は衰え、体がブヨブヨしてきた。先日やっと時間ができたので、大番頭のUさんの号令一下、9人でウオーキングすることになった。
 午前9時40分、ウキウキしながら集合場所の埼玉・熊谷駅に着くと。"三代目湯沸かし屋"のJさんが現れた。「わぁ、しばらく」と声をかけると、「昨日中に何とか仕事を終わらせて来ました。でも、今回の昼食場所は火気厳禁なのでコーヒーはなしです」との返事。「そう」と言ってみたものの、どこを歩くのか、どこで昼食なのか、私はまったく知らない。"主宰者"とは名ばかりで、いつも「金魚のフン」を決め込んでいるのだ。
 荒川脇の公園の受付で言われるままに2000円を払うと、ポリ袋を渡された。中には地図や歩数計が入っている。さっそく歩数計を付けて歩き始めた。Uさんの説明によると、当日は「第29回スリーデーマーチ」という国際的なイベントで、熊谷駅から荒川沿いを歩き、東松山市の小学校でゴールとなる20kmコース(約5時間)に参加しているのだという。なるほど土手には長い行列ができていた。30km、50kmのコースもあるらしい。途中で50kmのコースのおじさんが疾風のごとく追い抜いていったが、体がギュッと引き締まっているのに驚いた。
 4時間ほど歩くと股関節の当たりが痛くなってきた。「たかが歩き、だけど結構疲れるなぁ」と思った時、にぎやかな集団が追い越していった。中心にいたのは母国のサッカーの熱狂的サポーターの格好をしたベルギー人青年。国旗の3色の衣装に角のはえた帽子をかぶっている。「日本人もこういう楽しみを加えなくちゃ」ブツブツいいながら重い足を引きずった。
 5時間10分。すっかり腹ぺこでゴールに着くや近くの焼き鳥屋Yへ。料理に舌鼓を打ちながら歩数計を読んだのだが、あれれ?皆の数字が違い過ぎる。最多は3万3225歩なのに、一番少ない私のは1万4279歩しかない。2万歩近くも差があるではないか。「いつも着物だから、すり足で歩いているじゃないの」と言われたので、「歩数計がお腹の脂肪に埋まってたのかなぁ」と返したら、誰からも否定の言葉がない。《えっ、何?、冗談のつもりで言ったのに・・・》。こりゃ大変。自覚していた以上に『事態』は進んでいるようだ。「もっと歩かなくちゃ!」心の中で固く誓った私であった。
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其ノ32 ウーマンティナー
11月5日(日)掲載
86歳師匠との競艶で誓い
 独演会や一門会と並んで力を入れているのが「ウーマンティナー」。東京・霞ヶ関にある「イイノホール」が2000年11月1日に40周年を迎えたのを記念して始まった。毎年この日に開いており、今年で7回目になった。
 「ウーマンっていいな」という意味の女流芸人の競演(競艶でもある!)の場。私と落語の古今亭菊千代師匠がレギュラーで、今回は他に、弟子の神田蘭と江戸曲独楽の三増れ紋。ゲスト出演は三味線漫談の大ベテラン、玉川スミ師匠だ。「あたしゃね、3つのときから舞台に立って、もうすぐ芸道85年を迎えるんですよ」。年齢を感じさせない艶っぽい口調でスミ師匠。会場から大きな拍手がわいた。
 私の演目は「歌人・柳原白蓮」。伯爵令嬢として生まれ、九州の炭坑王、伊藤伝右衛門に嫁いだ白蓮宮崎龍介と出会い出奔、伝右衛門に新聞紙上で絶縁状を送り、大騒動になる物語である。実話を元にした新作で、私自身、いま一番情熱を傾けている。
《講談》
何不自由のない暮らしのあき(火ヘンに華)子白蓮の本名)、ある日別府の別荘へ一人の青年がやってまいります。「あなたは『誰か似る鳴けようたへとあやさるる緋房の籠の美しき鳥』と詠まれましたが、その鳥かご     を一度出て、大空を自分の力で飛んでごらんになりませんか」
「あなたはまだお若い。私のことなど何もおわかりにはなりませんわ」
「・・・僕の目には、あなたはかわいそうな人に見える。こんな籠に入れられているからなんじゃないですか」龍介白蓮が初めて出会う場面。ぐっと心を込めた。
 会場にはこの日、白蓮の娘の蕗苳(ふき)さんの姿があった。「講釈師見てきたような嘘をつき」という川柳があるが、ご家族を前にさすがにウソは語れない。かなり緊張した。蕗苳さんを紹介してくれたのは伝右衛門の出身地、福岡・飯塚のSさん。この日も飯塚から駆けつけてくれた。終演後「蕗苳さんどうだった」と尋ねると、「よかったけどとにかく緊張したって」。語る方はともかく、語られる方もドキドキしておられたとは申し訳ない。高座百遍。お客さまの前で100回語って私の十八番にしようと心に誓ったが、蕗苳さんからは「芸一筋に生きる女流の皆さんに、母の姿を重ねて見ました」との言葉もいただいた。
 81歳で亡くなるまで歌を詠み続けた白蓮。ゲストのスミ師匠は86歳で今なお現役だ。「私たちも80まで演じ続けなくちゃ」。とは言ったものの、道のりははるかかなたに思え、会を終わった安堵感もあって、「ほーっ」とため息が出た。
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其ノ31 女は元気
10月29日(日)掲載
幸せ"産んだ"満開笑顔
 中国の史書「魏志倭人伝」にも出てくる歴史の町、福岡県宇美町での講演のため、前日入りして博多の実家に泊まった。着いたのは夜中の11時。朝食の時間や場所などを尋ねてくる母に答えながら、私は時計が気になっていた。11時10分、NHKの人気番組「宮廷チャングムの誓い」が始まる。前にも書いたが、韓国ドラマにはまっているのだ。
 講談で言う大団円つまり最終回間近となった今回は、チャングムが国王の主治医に指名され、受けるか断るか迷う局面。恋人との道行きシーンもチャングムの母の駆け落ちと重ね合わせ、やっと女の幸せを勝ち取るのかーと期待させる。実は私はすでにBS放送で見ていたのだが、せりふに共感することが多い。「女の主治医となると国の歴史に関わる」と強硬に反対する男たち。辞表を出す者も出てくる。自分達の上に女が立つなど許せないのだ。女の方も嫉妬から「辞退すべきよ」と冷ややかな態度。うーん、これは今もある問題だ。性差別意識は女性にも根深い、などと考えさせられた。
 さて、翌日の講演地である宇美町は博多から電車を乗り継いで40分ほど。日本書紀などによれば、3世紀新羅から帰還された神功皇后が応神天皇をお「産み」になったことから、「宇美」と呼ばれるようになったという。まずは宇美八幡宮にお参りに行くと、若いお母さんやおばあちゃんに抱かれた赤ちゃんが何組かお宮参りに来ていた。どの子も生まれ立ての赤い顔をして気持ちよさそうにスヤスヤと眠っていた。
 講演会場の「働く婦人の家」では、模擬店の前の女性たちが一斉に拍手で出迎えてくれた。「これはかなりの乗りのよさ」と感じた通り、講演会は初めから大いに盛り上がった。300人近いお客さまは大半が女性。「やっぱり女性は元気で頼りになるね」「この日のテーマは「もったいない」と、皆で大きな声を出した。そして、笑顔はタダだから使わないと「もったいない」と、京都の八百屋の娘から徳川将軍の側室になった"江戸版シンデレラ姫"の「桂昌院」の一席を語った。「八百屋の太郎兵衛の娘お玉ちゃんは、大層愛嬌のある赤ん坊で・・・」と昼間の赤ちゃんたちを思い出しながらお玉を演じ、「この笑顔で徳川三代将軍家光公のご寵愛を得て、その御側室となり、五代将軍綱吉を宇美だけに生み参らせたと言う一席!」
 ご当地に掛けてそう締めると、会場中に笑顔が満ちた。芸人冥利に尽きる一日だった。
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其ノ30 母性本能
10月22日(日)掲載
歳をとったら・・・老婆心!?
 代理母の問題が取りざたされている。私も不妊治療に専念した時期があり、子供が欲しい気持ちは痛いほどわかる。その是非は別にして、結局私は子宝に恵まれず、「それもまた人生」と思える年齢になった。子育てをしていないから子供に"免疫"がない。どの子を見ても可愛いと思ってしまうのである。
 先日、東京・調布市にあるT学園芸術短大で、特別講師として講談の演じ方を講義した。短大の2年を終えて演劇専攻科に進んだ学生が対象で、本科生も入れて約80人。日頃の寄席は高齢者が多いから、20歳前後の若者たちを相手に少々ドキドキした。「紅先生の指示通りに高座を作ってね」。西洋演劇史担当のA教授が声をかけると、今風の男の子たちが「はい」と答えてテキパキと動いてくれる。「あら、いいわ。こんな子たちなら、うちの業界にもぜひ!」と思わず捕らぬ狸の皮算用をしてしまう。やがて小劇場と名付けられた稽古場に簡単な高座ができ上がった。床に座ってじっと待ち受ける生徒たちの前に出囃子で登場。つかみは「私は泣けない女優だったのよ」と、女優時代の経験から入ったら、みんなの目がキラリと光った。
 「修羅場」「世話物」「怪談」の講談語りを解説したあと、「いざ鎌倉」の実践になったが、音感のいい生徒たちはすぐに覚えてしまって、私より声が大きい。驚いたのは幽霊のしぐさの時。「手をこうして前に」と言うと、一斉に両手を前に出すではないか。やる気満々の80人の"幽霊群"は圧巻だった。 この短大の学長は演出家の蜷川幸雄さん。「芸術は、学び鍛えるもの。さまざまのものを学び、自分を徹底的に鍛えよ」と常々おっしゃっているらしい。その教えが十分に伝わっているのだろう、みんな純粋で熱心だ。
 最後に芥川龍之介原作「桃太郎」を語り、寄席の踊りを披露すると、拍手大喝采。興奮した生徒たちに囲まれうれしい握手攻めにあった。 「自分に子供がいたら、この世代か」。そう思うと可愛くてたまらないが、芸能界で成功するのはほんの一握りだ。「この子たちはそれまで頑張り続けられるのかなぁ・・・。芸能界でなくても、人生に何かを見つけて欲しい」と母親のように願う私。「わーっ、これって母性本能?いやいや、老婆心よ!」。ん?ひょっとすると母性本能は歳をとると老婆心に変わるのかもしれない。それにしても、わが子のような世代と握手をして、いい気持ちになる私って、ただのオバさんかも・・・。
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其ノ29 北朝鮮核実験
10月15日(日)掲載
番組中止に浮かんだ謎かけ
 3連休最終日の9日、NHKラジオの昼の生放送「なぞかけ問答」の特番に出演するため、地下鉄代々木公園駅で下車した。週末の荒天とはうって変わって抜けるような秋晴れの空。清々しい空気を胸いっぱい吸い込んだ。今回のお題は、体育の日ということで運動会にちなんでリレーと綱引き、応援団。すでにたくさんの応募作品が届いていた。
 「なぞかけ問答」は毎日午後の短いコーナー番組。アナウンサーの男女2人が師範代を務め、毎日これはというものを選び出す。その中から月に一度の月間賞を4人の師範が決めるのだが、作者は選んだ師範の名前が1字もらえる。特番では師範役のコラムニスト、天野祐吉さんと私が呼ばれていたので、天野さんなら「吉」、私は「紅」の1字を付けるというわけだ。「天野師範紅師範からのダブル受賞で、『まがたい』から『紅まがたい吉』になった方に電話がつながっています」。台本にはそう書いてあった。常連のリスナーさんで、当日の応募作品は「応援団とかけてうっかり農家と解く。その心は?声(肥)を枯らして大騒ぎ」だった。
 「たぶん農家の人かなぁ」などとのんきに想像しながらスタジオに着くと、スタッフが皆テレビに釘付けになり、ただならぬ空気が流れていた。見れば画面には、安倍総理や北朝鮮の金正日総書記の顔が何度も映し出されているではないか。「北朝鮮が地下核実験を行ったという発表で番組がどうなるか・・・。少々お待ちください」ということで待機していたが、結局番組は中止に。詫びるスタッフに天野さんも私も「仕方ないですよ」と答えてNHKを後にし、『紅まがたい吉』さんとの電話もまたの機会になってしまった。
 「世の中何が起きるかわからないなぁ」。核の恐怖からの連想ではないが、公開されたばかりの映画「ワールド・トレード・センター」を見に行くことにした。あの「9・11」の悲劇の中で奇跡的に救い出された2人の警察官の家族愛の物語。主役のニコラス・ケイジが瓦礫に埋まって身動きできず、のどの乾きにあえいでいた。砂まみれの顔に臨場感があり、私までおいしい水が飲みたくなった。映画館を出ると、くっきりとした満月の夜。安倍総理の引用した「美しい国、日本」が、そこにはあった。ありきたりではあるが、思わず謎かけが一つ浮かんだ。
 「平和とかけて水と空気と解く。その心は?どちらもなくなって初めて大切さに気がつく」
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其ノ28 炭と"現代の磨墨"
10月8日(日)掲載
ディープに心躍らされ・・・
 北九州市の知人が定年退職してから始めた「盆栽屋」が4周年を迎えるというので、先日お祝を兼ねて一席語ってきた。盆栽と言っても一風変わった作品で、炭になった竹筒に山野の木や草花を植えていく、「竹炭山野草華」と名付けられたオリジナルの盆栽だ。山すその田舎家を改造した店の1階は、玄米や自然食の食事もできるギャラリーになっていて、家の中のあちこちに竹炭が置いてある。
 「炭」はマイナスイオンを発し神経を休める効果があるらしい。私も2階の座敷でしばしの休憩、山や田んぼを眺めているうちにうたた寝をしてしまったが、何と目覚めの爽快なことか。元気いっぱいで講談「鉢の木」を語り、お土産に竹炭の盆栽をいただいた。福岡の実家に戻り、「これ竹炭の松。育て方はここに書いてあるからね」と母に手渡すと、「お正月に玄関に飾ろう」と大喜びした。
 すでに夜の11時を過ぎていたが、病身の父が起きていて、「これからディープインパクトが走るんだ」とテレビの前に陣取っていた。競馬には何の興味もなかった私だが、父と一緒にNHKのドキュメンタリーを見ていると、画面に「墨」を流したような艶々とした黒いたてがみの馬が現れた。「なんて美しくて魅力的な目をした馬だろう」11戦10勝の名馬は首を激しく振り、気性の荒さを示す。そしてゴール前、まるで天を駆けるような伸び足で居並ぶライバルを一気に抜き去っていく・・・。そんな過去の名勝負にくぎ付けになった。ディープに「一目惚れ」の瞬間。たてがみとしっぽ、足の下部が黒い鹿毛(かげ)だが、「講談に出てくる磨墨(するすみ)とは、こんな馬だろう」とほれぼれした。
 あの山内一豊が馬市で1頭を見初め「池月、磨墨にも劣らぬ馬だ」と感動した気持ちが、わかったような気がした 池月、磨墨というのは木曽義仲源義経が戦った「宇治川の先陣争い」に出てくる名馬。義経勢の武将、梶原景季磨墨にまたがり、池月に乗った佐々木高綱と先陣を争うが、高綱の策略に引っ掛かり一番乗りの功名をさらわれてしまう・・・。
 さて、いよいよディープインパクトの出走ー。武豊騎手の懸命のムチも届かず、残念ながら宇治川の磨墨同様、先陣を逃してしまった。だが、それまで無関心だった人の目を競馬に向けさせた功績は大きい。まさに名馬の誉れ。炭に癒され、"現代の磨墨"に心踊らされた一日だった。
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其ノ27 誠意あるプロ意識
10月1日(日)掲載
児玉清さんのステキな気配り
 テレビ番組で長寿になるには、内容はもちろん、番組の顔とも言うべき人物の人柄や魅力に負う所が大だ。先日、NHK・BS2の「週刊ブックレビュー」に出演した。司会の一人の児玉清さんは、長寿番組の司会者として定評がある。あの人気クイズ番組「アタック25」は32年目を迎え、「アタックチャンス!」の言い方が物まねにもなっているほど。「ブックレビュー」もすでに14年目(番組自体は16年目)だそうで、私も何度か出演させてもらっている。
 千葉県佐倉市での公開録画は、前日から駅に隣接するホテルに泊まった。打ち合わせを兼ねた夕食の席では、ご本人が中心になってムードを盛り上げるのが、児玉さん流のいつもの気配りだ。ゲストの作家は小川洋子さん。「博士の愛した数式」の著者で、「妊娠カレンダー」で芥川賞を受賞した才女である。化粧っけのない小川さんはとても気さくな感じ。すでに児玉さんとは打ち解けて話しておられたので、隣に座って彼女の話に耳を傾けた。家族の話や日常のことを、児玉さんはさりげなく聞いている。これが番組の自然の流れを作り出す源なのだろう。
 さていよいよ収録当日。前半は3人の書評ゲストがそれぞれの推薦本を紹介して合評する。私の"おすすめの一冊"は、田中貴子著の「鏡花と怪異」。泉鏡花作品の怪異に焦点を当てた考察本で、推薦理由を述べた後、鏡花作「吉原神話」の抜粋を講談調で語ることになっていた。そのきっかけも自分で作る予定だったが、「それで」と児玉さんが私の話にうまく相づちを打ってくれたので、つい鏡花のお化け論議に花が咲いた。再度の「それで」にも気がつかず、調子に乗ってしゃべり続けたが、児玉さんはニコニコ顔で、3度目の「それで」を繰り出した。「ア、ごめんなさい! 講談やらねば・・・」。会場からクスクス笑いがもれた。放送ではこの部分はうまく編集されていたが、児玉さんの余裕ある司会のおかげで、固くならずに語ることができた。
 3人の推薦本コーナーが終わると、ゲストの小川さんが登場、最新作「ミーナの行進」の話をした。児玉さんは前夜には全く触れなかった事柄ばかりを質問。下地がちゃんとできているから、いい話が次々と引き出された。「もう70を過ぎているんですよ」と言う児玉さんの言葉に驚いたが、長寿番組の秘訣は児玉さんのような『誠意あるプロ意識』にあると確信した。こんなステキな70代なら、歳をとるのも悪くない。ますますファンになった。
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其ノ26 髪が命
9月24日(日)掲載
"頭"気にして頭を間違え
 舞台で髪形が決まらないとどうも具合が悪い。新人の頃は美容院でセットしてもらっていたが、今ではそんな時間がもったいなくて、自分でサッサとやるようになった。が、先日は故郷の福岡での年に1回の独演会。「ここは決めねば」と奮発したのだが・・・。
 5回目を迎えた独演会では「福岡スピリッツを語る」と題して、福岡ゆかりの先人たちの志を創作講談で紹介してきた。去年からは福岡紅塾の生徒さんも出演し、リレー講談をやってもらっている。今年の演目は「筑紫の女王・柳原白蓮」。波瀾の人生を生きた大正ー昭和の歌人については以前もこの日記に書いたが、筑豊の炭坑王、伊藤伝右衛門に嫁いだ華族出身の柳原あき子(白蓮)、10年の結婚生活の後、7歳年下の帝大出の若き弁護士、宮崎竜介と駆け落ちし、新聞紙上に"夫への絶縁状"を掲載したことから、世に「白蓮事件」と騒がれた物語である。今年5月に東京・本牧亭でネタおろしして以来、続々と集まってくる資料を読んでは手を加え、より充実した内容になってきた。
 白蓮人気で切符は完売。新聞の取材もあるので、ひさしぶりにセットしてもらおうと予約した美容院へ。「白蓮みたいな束髪に」と写真を見せて頼み、原稿に目を落とした。書き直した箇所をブツブツとつぶやいて口慣らしし、30分ほどたった頃、「いかがでしょう」と声をかけられたので顔を上げて鏡を見ると、前はいい感じに膨らんでいるが後ろがぺっちゃんこでどうもバランスが悪い。「う〜ん、どうしよう」と悩んだが、気に入らない髪形での舞台はどうしてもイヤ。やり直しをお願いした。今度は原稿を見ているわけにもいかず、細かく指示を出しながら、何とかイメージした髪形に仕上がった。
 会場に入るとすぐにリハーサルがスタート。「白蓮」の原稿を大きな声で読み上げた。追加で手直しした個所がいくつか頭をかすめたが、リレー講談を演じる生徒さんの指導にも当たらねばならない。塾生13人が忠臣蔵の「南部坂雪の別れ」を語るのだが、各人の目線や動きをチェックし、終わったのは開演20分前。着物に着替えメイクをするのがやっとだった。原稿のことが気になっていたが、「ええい、ままよ」と覚悟を決めて舞台に上がった。しかし、案の定、冒頭で「柳原あき子白蓮と名乗って・・・」とするところを、「柳原白蓮白蓮と名乗って・・・」とだぶって言ってしまった。頭(髪)を気にして頭を間違えてはしゃれにもならないが、何事もこだわりが大切であることを改めて思った。
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其ノ25 言葉遊び
9月17日(日)掲載
猛暑の中の舞いで"九笑"
 2年前の新潟県中越地震で被災した魚沼市根小屋の永林寺。このたび見事修復なった本堂で、「石川雲蝶伝」を語らせてもらった。雲蝶は幕末の名工で、"日本のミケランジェロ"と称される欄間師。永林寺に13年間逗留し、百余点の作品を残している。写真集ですっかり雲蝶ファンになった私は「お寺の復興にお役に立ちたい」と、雲蝶伝の作者である放送作家のK先生と魚沼へ向かった。
 駅から車で30分ほどで寺に着くと、入り口脇には石碑のモニュメントがたくさん並んでいる。中に雲蝶の手形があったので、手を置いてみたが、あまりに小さいので驚いた。「本当に雲蝶の手?」と思わず疑問を口にすると、「これぐらい小さい方が深彫りや透かし彫りの時に便利だったのでしょう」。事務局の人の説明に妙に納得した。ふと向こうに目をやると、500年以上の歴史を持つ古刹の本堂が厳かなたたずまいを見せていた。「こちらは何宗ですか」とS住職に尋ねてみる。曹洞宗の寺であることはわかっていたが、パンフレットに「皆の宗」とか「ニコニコ宗」とあったからだ。「何宗でも結構。キリスト教の信者さんもおいでになるんですよ。だから皆の宗」丸いお顔で高らかに笑うS住職は二十数年前に脳血栓で倒れ、3年間の猛烈リハビリで見事復活された。「この世はご苦楽(極楽)泣き笑い」(泣いて過ごしても1日、笑って過ごすのも1日。プラス思考で生きよう)とか、「遊び」は「明日美」(あしたは美しい)といった具合に、言葉遊びで人を元気にしている名物和尚さんだ。
 さて当日は、お寺に祀られている元福井藩主の松平忠直公と嫡子で元高田藩主の光長公の香華祭。全国から永林寺友の会のメンバーが150人ほど集まり、本堂での講談「雲蝶伝」が始まった。「お酒と女とバクチが大好きな雲蝶。蝶のようにヒラリヒラリと旅をするうち、いつしかこの寺に住みつきます」。雲蝶の代表作は『笛を吹く天女』。透かし彫りで、裏に回ると、笛を吹く美しい天女のふくよかな背中が拝めるという傑作だ。「お国さん、天女が舞う姿がどうしても彫れねぇ。一つ舞っちゃぁくれめえか」「はい、では」・・・。
 演台から降りてお国に扮した私が義太夫「櫓のお七」の人形ぶりを舞ったが、この日は何と37度の猛暑。踊り終わって高座に戻ると、大汗が噴き出していた。目もかすみ、講談の最後で雲蝶の作品群を読み上げる時には文字もよく見えなかったが、必死に笑顔でこなした私。満足そうに「笑顔にまさる化粧なし」と褒めてくれた和尚の言葉遊びにあやかって思わず"九笑"(苦笑ではなく笑いがいっぱい)した。
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其ノ24 芸人の世襲
9月10日(日)掲載
受け継げるのは看板だけ
 政治の世界には2世・3世議員が大勢いるが、寄席の世界ではまれで、特に3代ともなると滅多にいない。今月下旬に六代目柳家小さんを襲名する柳家三語楼師匠は、人間国宝の故五代目を父に、甥は若手プリンスの花緑師匠。3代続く落語界の名門の2世ということになる。
 その六代目の襲名披露宴が先日、東京都内のホテルで開かれ、出席させてもらった。先代からの友人である歌舞伎の中村富十郎さんが、お目出度い「七福神」を踊って豪華な幕開き。「鬼平」の中村吉右衛門さんや山田洋次監督らそうそうたる顔ぶれが祝辞を述べた。会場には700人近いお客さまが駆けつけ、しかも途中で帰る人がほとんどいなかったのは、三語楼師匠のお人柄によるものだろう。兄弟子の小三治師匠扇橋師匠が「はじめて会った時、よっちゃん三語楼師匠の本名は義弘)は小学生だった。その部屋を俺達で掃除したよな。そのよっちゃん小さんになるなんて・・・」と目を細め、掃除したことをやたらに強調して会場を笑わせた。落語協会会長の鈴々舎馬風師匠は「自然体の六代目をどうかごひいきに」と後見人としてのエールを送った。三語楼師匠自身が最後に「1年前に決まってから、私でいいのだろうかと思い続けてきた」と胸の内を正直に語ったが、そのプレッシャーの大きさは推して知るべしだろう。
 話は変わるが、新宿の寄席で雷門助六師匠がトリを務める大喜利の住吉踊りに参加した。助六師匠は九代目で、先代の八代目が亡くなって間もなく跡を継いだ。この時のプレッシャーもかなりのものだったと聞いているが、努力の甲斐あって、先代の得意な「あやつり」は今では、現助六師匠の十八番としてしっかり定着している。操り人形のように「かっぽれ」を踊るのだが、両足を開いて閉じる様は、上から糸でつり上げられるよう。座る時にはつま先から前に折れ曲がる。実に見事だ。「今日は助六師匠のあやつりが見られた。本当に来てよかった。ラッキーだった」。お客さんたちはそう口々に喜んで帰っていく。
 政治家は地盤・看板・鞄を受け継ぐというが、芸人が受け継げるのは看板の名跡だけだろう。「芸は1代」。大看板になれるかどうかは本人の精進次第で、すべてはお客さまが決めるのだ。政界も、世襲議員(の総理)であっても、「議員は1代」の覚悟で臨んでほしい。同時に、その能力を評価する国民の目を養うことが、一番重要なのかもしれない。
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其ノ23 東京ビッグトーク
9月3日(日)掲載
石原知事の"話術"に心奪われ
 東京都民が石原都知事と議論する会のコーディネーターを仰せつかった。「東京ビッグトーク」と名付けられた公開討論会で、20回目を迎える。今回のテーマは「水辺から考える東京」だった。
会場は羽田空港近くの天王洲アイル駅に直結したホテルの28階。ステキなL字型ホールの眼下には京浜運河が流れ、若者のデートスポットとしても有名な場所だ。
 石原知事とはこの日が初対面。記者会見で質問する記者を厳しい口調で叱り飛ばす姿をテレビで見たことがあり、少々緊張気味で臨んだ。控室で待っていると、コメンテーターの一人である建築家の安藤忠雄さんが颯爽と現れた。「知事はよくしゃべってくれるから僕の出番はないかな」と笑った顔が人なつっこい。いっぺんに緊張がほぐれた。続いては、もう一人のコメンテーターの銅版画家、山本容子さん。白のノースリーブのパンツスーツ姿がとにかく決まっている。かねてからお会いしたい女性の一人だったのでワクワクした。と、そこへ、ヌーッと知事が入ってきた。いきなり「今日の顔ぶれはどういうことで?」と私に顔を向けたので、「たぶん水辺に住んでいるからでしょう。(私は)向島で花火と桜の美しい所です」と答えた。そんな顔合わせの後、知事は「さあ、行こう」と皆を促し、早めに会場入り。さっそくトークが始まった。
 まず、3人にそれぞれの「水辺」に関する考えを5分程度話してもらったのだが、知事が「今の東京は色彩や形態がばらばらで、江戸のころと比べるとゲロのよう」と強烈な批判で口火を切った。山本さんが「船の中にギャラリーを作って動く文化を」と提案すると、「それは無理。採算が合わない。夢物語だ」とぴしゃり。山本さんも負けずに「人間、夢を持つのはいいこと」と反論したので、私もそれに同調した。俄然トークが面白くなってきた。都民からの提案にも知事は「それは無理」「ちゃんとやってる」とはねつける。ところが最後には、爽やかに「今日は貴重な意見をホントにありがとう」。満場の拍手が送られた。
 あれ、ひょっとしたら知事の愚痴や"けなし"は一種のパフォーマンス? 確かに冷たく突き放した感じの方が、反論は出やすい。控室に戻ると、案の定、知事は相手のハートをつかむニコニコ顔で、「君の得意ネタは何?」と尋ねてきた。最初は苦手だと思ったのに、そんな風に言われると心が千々に乱れて、ファンになっちゃうじゃない!
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其ノ22 池袋怪談会
8月27日(日)掲載
筋忘れるほどの「叫び」
 昔から大変な怖がりで、それでいて怖い物見たさの子供だった郷里・博多の筥崎宮は参道の長さが全国でも屈指で、放生会(ほうじょうえ)には側道に見せ物小屋が立ち並ぶ。一番のお気に入りはお化け屋敷だった。お客が扉を開けて入ろうとするとお化けが飛び出し、驚いて叫び声をあげるのだが、その声が大きいほど次のお客の呼び込みになるのだ。
 さて、毎年夏の恒例、東京・池袋演芸場の怪談会。今年は3年ぶりに「実録累物語」の前、後編を2日にわけて語った。物語は、歌舞伎の「法懸松成田利剣(けさかけまつなりたのりけん)」や三遊亭圓朝の「真景累ケ淵(しんけいかさねがふち)」で有名だが、いずれもフィクション。
(かさね)は実在の人物で、茨城県水海道市(現常総市)の法蔵寺にお墓がある。以前行ってみたが、山門もない殺風景なお寺で、祐天上人の霊を鎮めた時に使った数珠やその有り様を彫った小さな木像が祀ってあった。
 講談は実説にかなり近いらしい。前編は、江戸に商売に出た累の父親が、稼いだ金を吉原で遣ってしまう。仕方なく羽生村に帰る途中、旅の女を殺して金を奪った。その1年後、が囲炉裏に落ち、殺した女と同じような醜い顔になる。を見るたびに旅の女を思い出し、「許してくれ、俺が悪かった」と詫びる父親に、は「ととさま、どうか気を確かに」となだめるが、急に面を被って声を替え「治る病とてなおさぬ。よくも私をこんな目にあわせたなぁ」と襲いかかる。「ギャーッ!」。舞台は真っ暗。ドロ(怪談噺で使う大太鼓)が鳴り、弟子2人が扮したお化けが客席に出没して脅かすが、どうも反応が弱い。たぶん悲鳴の声が小さかったのだろう。
 翌日の後編。顔は醜いが気だては優しいは、眉目秀麗な旅の僧を夫に迎える。が、夫は名主の娘と親しくなる。悋気(りんき)を起こしたは鎌を手に、物凄い形相で雨の中を走り出す。「与右衛門殿、どうか私を殺さっしゃい。生きていれば見なくてよいものを見なければならぬ。さあ」と鎌を振り回し、過って自分の乳の下を突き刺してしまう。噴きあがる血しぶき。哀れに思った与右衛門が鎌をの首にあて、サッと引く。「ギャーッ!」という断末魔。と、客席からも「ギャーッ!」と声があがった。講談教室の生徒さんで、「先生の叫び声があまりに凄くて、つい声が出ました」とは有り難い。
 叫びは連鎖反応を呼び大成功だったが、「さんって可哀想でしょ」と聞くと、「イヤー、ビックリして筋はすっかり忘れました」とは脅かしすぎか?!
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其ノ21 住吉踊り
8月20日(日)掲載
志ん朝師匠も天国からエール
 落語界の至宝といわれ、平成13年に他界された古今亭志ん朝師匠。最後の舞台は浅草演芸ホールの夏の「住吉踊り」だったと聞いている。師匠とお会いして、「住吉踊り」の話題が出ない日はなかった。よほど気の合う仲間たちだったのだろう。私も入りたいと思ったが、中途入会を許さない固いチームワークがあった。その後、三遊亭金馬師匠が中心になって継続、私も3年前に念願かなってメンバーに加えてもらった。
 8月中席(11〜20日)の浅草演芸ホール昼は超満員。金馬師匠の落語の後いったん幕が閉まり、すぐに開く。とそこには、その日登場していた芸人が揃いの浴衣で集合している。「住吉踊りは今年で28年。新しい人も入り一生懸命稽古をしていますが、困ったことは皆踊りがうまくなって、私が下手に見えることです」。金馬師匠の楽しい挨拶に続いて、いよいよ住吉踊りのメドレーが始まる。「かっぽれ」などのお決まりの踊りばかり毎年やっているわけではない。多くのレパートリーから今年の出し物を選び、手を加えて披露している。今回はうちわを使った「長崎さわぎ」や「字余り都々逸」という滑稽な踊りが見ものだ。
 極めつけは女性全員で踊る「チアーガール」。ピンクや黄色のビニールひもを裂いて作ったポンポンを手に「かっぽれ」を踊るのだが、「チューチュートレイン」(縦に並んで少しずつずれながらグルグル回る)をやると、客席から「オーッ!」という歓声。してやったりの瞬間だ。「イエーッ!」と弾みながら上手に退場すると、今度は下手から鈴を手にした男性全員の「かっぽれ」でフィナーレ。総勢42人の芸人が舞台に所狭しと並ぶ幕切れは圧巻だ。
 去年までは決まりの踊りを覚えるのに精一杯だった私だが、石の上にも3年で、今年は楽屋でも冗談を言えるようになった。「アイラインは墨が落ちなくていいんですって」と話す松旭斎美智先生に、「だから、すみよしだ」と駄洒落で答えると、古今亭菊千代さんが「やだ、お姉さんキャラが変わった」。いえいえこれが私の地。下手な親父ギャグが出始めれば、環境になじんできた証拠だ。
 演芸ホールを出ると、「住吉踊りよかったわ」と埼玉から初めて見に来たというお客さんが声をかけてくれた。志ん朝師匠のころと何かと比較されがちな新生住吉だが、見る人もやる人も少しずつ新しくなって、連綿と続いて欲しい。継続は力。志ん朝師匠もあの世からきっとエールを送ってくれているはずだ。
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其ノ20 圓朝祭り
8月13日(日)掲載
"怪物"に取り憑かれて
 明治時代の落語の大家、三遊亭圓朝は怪談話や人情話などを沢山創作し、明治33年(1900年)61歳でこの世を去った。墓所の東京・台東区谷中の全生庵では毎年、命日の8月11日に「圓朝忌」としてゆかりの落語や講談を奉納している。私も以前、師匠の2代目山陽と「牡丹灯籠・栗橋宿」を語らせてもらった。本堂でご本尊を前に演じるのだが、両側には落語協会と落語芸術協会の会長らお歴々が陣取り、大いに緊張したことを覚えている。5年前から落語協会の単独催となり、名称も「圓朝まつり」に。にぎやかに圓朝をお祭りするお客さまサービスのイベントに生まれ変わった。
 朝8時の集合。眠い目をこすりながら浴衣姿で駆けつけると、お寺の塀にはすでに紅白の幔幕が張り巡らされ、幟も立っている。境内には出店がズラリと並び「ゴミ隊」と名付けられたベテラン落語家や芸人さんの一団が、揃いのTシャツで元気に走り回っている。人込みをかき分ける行事の進行役だが、どの師匠も普段の高座より溌剌としていて、学園祭の生徒のようだ。
 私は今回、木遣りと住吉踊りに参加し、出店の売り子も担当。住吉踊りの女組「大江戸小粋組」のテントで、「雑貨3点千円。安いよ」「洗剤はどうです!」と大声で呼び込んだ。洗剤と聞いて不思議な顔をして通り過ぎる人もいるが、雑貨を集めてくれたのは、小粋組の大姉御である手品の松旭斎美智先生。「社長、ねぇ社長!この焼酎、持っていきなよ」と色気十分。半ば強制的だが姉さんの勢いには勝てず、お客さまはけっこう喜んで買っていく。さすがだ。
 俗曲の柳家小菊師匠は、もらった大入り袋を100円ショップの額に入れ、装飾をこらして「ひとつ千円、サイン付きですわよ」。優しい声の誘いで見事完売した。手品の松旭斎世津子さんの手作り和装小物は、どれもプロ並みの逸品。開店前に私もバッグを一つ買っていたが、他にも気になる品があった。フィナーレ後に楽屋に戻って彼女に「あれ売れた?」と尋ねると「大丈夫」の返事。万歳しながらお目当ての品を大事に抱えて帰宅した。
 猛暑の中、売り手も買い手も何かに取り憑かれたように必死。出演と物販でへとへとになったが、充足感に満された。本職の高座を離れてみんなでやる仕事は楽しい。と思ったら「しまった!圓朝師匠のお墓参りを忘れてた」。ま、買い物は怪(談)物ってことで許してもらえるか、とは女の勝手な理屈か・・・・・。
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其ノ19 隅田川花火大会
8月6日(日)掲載
喜ぶ顔に生きる吉宗の精神
 享保18(1733)年に徳川幕府の8代将軍吉宗が始めたという東京・隅田川の花火大会。当時飢饉やコレラの流行で、重く沈んだ人々の心を慰めようと花火を上げたとか。そんな江戸の風物詩を我が家で楽しめると聞いて墨田区向島に中古のマンションを購入したのが18年前。初めは7人で見たが、年々招待するお客さまが増え、稽古場のある隣接マンションもあわせて、ついに先月29日の今年は10倍の70人を超えた。
 何より大変なのは足の踏み場もない部屋にスペースを作ること。1週間前からどこに荷物を積み上げるかを必死で考える。そして夜中に1人で少しずつ整理し、3日程前からは3人の弟子も加わる。陽司はベランダ、紅葉は台所、は荷物運びと掃除。紅一門の役割分担はいつの間にか決まってきた。前夜には、生ビールのディスペンサーが近所のK酒店から運び込まれる。大したもてなしはできないが、「せめてお店のようなキューっと冷えた生ビールを飲んでもらいたい」と、毎年続けてきた。
 寄席に出かけた私の留守を預かり、翌日の料理の準備をしてくれるのは親友のT娘のAちゃん。長身のAちゃんに早速ディスペンサーに水を入れてもらった。翌日には氷水になり、生ビールを冷やしてくれるのだ。ところが、「あれ、紅さん水がもれていますよ」。見れば機械の四隅の一角からポタポタと水が垂れているではないか。「うわっ大変、どうしよう。部屋が水浸しになる。冷えた生ビールが飲めない」時計を見るとすでに深夜の12時半。躊躇しつつも「ごめんなさい」と酒店に電話した。親父さんは寝ぼけ眼(まなこ)で駆けつけてくれたが、彼が入れると水は漏れない。「手品でも使うんですか」「ハハハ、入れてはいけないところに水が入っていたんですよ」というわけで一件落着。親父さんの親切に女3人は深々と頭を下げた。翌日、今度は息子さんが様子を見にきてくれた。下町の人情はまだまだ健在、うれしくなった。
 そして、花火当日。続々と常連客が訪れ、あれよあれよという間に、屋上や部屋、ベランダが満杯になった。「まずは駆けつけに」と冷えた生ビールを振る舞うと、「うまいっ!」の声。何とか間に合った。後は花火職人さんの技を心ゆくまで堪能する。大輪の花を咲かせてあっという間に消えていくその潔さが好きだ。準備の苦労が消えていく瞬間でもある。「気がふさいでいたんですが素晴しかった。来て本当に良かった」と帰っていく人もいて、吉宗の精神が今も生きていることを実感した。

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其ノ18 弟子紹介
7月30日(日)掲載
考え過ぎてしどろもどろ
 飛行機内のイヤホンで聞く寄席番組9月号のナレーションを録音した。以前にも書いたが、案内役は私と関西の女道楽の内海英華さん。台本では放送作家の・先生が出演者のおおまかなプロフィルを書いて下さるが、フリートークの部分もあって、そこがまた聞きどころになっている。
 この日は3組の登場で、トップバッターが今は私の弟子の陽司君。原稿には「陽司先生」とあったが、自分の弟子に先生はない。「君」にして語り始めたのだが、しどろもどろになってしまった。
神田陽司君は昭和37年、兵庫県尼崎市のお生まれで、じゃなかった生まれで、元は某情報誌に入社され、いや入社し、副編集長まで務めましたが、二代目神田山陽先生、いや二代目神田山陽師匠、つまり今は亡き我が師匠の講談に出会い、平成2年、28歳で入門され、あ、入門いたしました・・・」敬語で書かれた文章を添削したはずだが、やりにくいことこの上ない。
 フリートークになって、陽司君がある日突然、名刺を持って楽屋に師匠を訪ねてきたときのことや、出迎えたのがこの私だったことを話した。「出番を終えステテコ姿だった師匠は、名刺を見て取材だと思い、あわててズボンをはいた。私は座布団を出したが、彼は脇にサッとはずして『弟子にして下さい』と深々と頭を下げた。師匠は『なぁんだ』と言って、再びズボンを脱いだってわけ」。英華さんが大笑いしてくれたので少し落ち着き「性格も口跡もいい。ただし、43歳で独身。お嫁さん募集中。そんな陽司君の創作講談、競走馬物語です」と結んだ。次は英華さんが上方の漫才コンビの平和ラッパ・日佐丸師匠を紹介。前歯をグッと出して口ごもりながら、ラッパ師匠の人気ギャグを真似て「天王寺の亀の池」とやったので、私は吹き出した。最後は落語家の柳家三三師匠を私が紹介。こちらはフリートークも交えてスラスラといき、すぐにOKが出た。
 終了後、先生やスタッフから「お弟子さんのことはかなり言いにくそうでしたね」と聞かれ、「ほめ過ぎるのもけなし過ぎるのも変でしょ。考え過ぎちゃって・・・」。「替わればよかったかな」と英華さんが言うので「でも私は『天王寺の池の亀』はできないもの」と答えると「『池の亀』じゃなくて『亀の池』。やっぱり紅さん今日はおかしいはわ」と全員がうなずいた。
 師匠と言えば親も同然、弟子と言えば子も同然。あれっ、これって大家と店子か・・・。

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其ノ17 寺で講談教室
7月23日(日)掲載
無口な住職と名コンビ
 お寺で講談教室を始めてもう10年以上になる。JR小田原駅近くの城源寺。「寺子屋の時代から寺は地域文化・情報の発信基地だった」とおっしゃる住職の古林さんは、「城源寺フォーラム」と銘打って、政治・経済の講演会や琵琶・指笛の演奏、民謡コンサートなどを地域の人々に無料で提供してきた。当初は新聞社の元社会部記者の住職の退職金を注ぎ込んだ大道楽といわれたものだが、今では「開かれた寺」としてすっかり定着してきた。
 3連休の最終日、猛暑の中を本道には70人以上が詰めかけて下さった。約半数が講談は初体験。まずは基本訓練として「鉢の木」の一節を皆で声を出し、調子に慣れてきたところで応用編の「四谷怪談」の一部を練習した。講演台の両脇には、檀家のMさんが丹精込めた柳に大提灯のセットが置かれている。提灯の中にはお経がびっしりと書き込まれていた。こんな工夫を手作りでしてくれるのが何とも嬉しい。
 「角助、角助」
 「はい旦那様、お呼びでございまするか」
 「ああ、ネズミじゃよ。毎夜のようにネズミがわしの体を食らいおる・・・・」
四谷怪談の「伊藤喜兵衛の死」の一節で怖い怪談調の語り方を教え、最後に基本編から応用編のどちらかを参加者にやってもらった。最初は常連のOさん。怪談をニコニコ顔で語ったので「ちょっとうれしそうだったかな」と言うと「はい、(講談を)やるのはうれしいです」正直な答えに本堂は笑いに包まれた。続いて在家の尼僧Tさんが怪談の「うー、うー」と唸る部分をリアルに語った。お礼に手ぬぐいを渡すと手をあわせて私を拝まれたので、私も拝み返した。最後は住職のお孫さんで、小学校4年生の美咲ちゃん。「鉢の木」の難しい言葉を大きな声で朗々と読み上げ、満場の拍手が送られた。
 その後、私が「四谷怪談」を一席語ってフォーラムは終了。場所をかえて有志の茶話会となった。先程のOさんが「今日のちらしに第21回ってあるけど、22回の間違いですよね」と指摘。住職は「あれ?そうでしたか、アハハハ」と無頓着に高笑いされたが、「『今年はやらないの?』と今では催促されるんですよ」と目を細められた。「住職紅さんは名コンビ。これからも続けて下さい」と誰かが言ったが、温和で無口な住職とコンビということは、私はその反対っていうことなのか?!

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其ノ16 今村監督のお別れ会
7月16日(日)掲載
人間観察やってるか!
 五月に亡くなった日本映画界の巨匠今村昌平監督のお別れ会が過日、東京新宿のホテルで行われた。監督が創設した日本映画学校の主催。今村組のスタッフや映画の出演者、映画学校の卒業生や在校生ら約500人を超える参列者で会場はあふれた。白いカーネーションの献花の後、小学校時代からの同級生で俳優の北村和夫さんが挨拶。冒頭で「今平、今平、今平、今平、今平」と遺影に5回繰り替えして呼びかけると、会場は一瞬にして哀しみに包まれた。「君が逝ってから40日になるのに、僕の心はぽっかリと穴が開いたように寂しくてたまらないよ」と親友を惜しんだ。
 ステージでは映画「楢山節考」の母親役の坂本スミ子さんが、映画の最後に流れた「親を眠らす子守唄」を熱唱。続いて監督ご自慢の今村組のスタッフのうち出席できた二十数人(実際は200人はいるらしい)が登壇した。「監督にはまず心を傷つけられ、肉体も大いに傷つけられましたが幸せでした」「現場では厳しかったが、現場を離れると、どのスタッフのこともほめていた」。そんな話を聞きながら、私は戦国時代の武将を思い浮かべていた。監督と命を預ける今村組のスタッフはまさに運命共同体だったのだ。
 今村組の後は出演者が呼ばれてあいさつに立った。まずは「カンゾー先生」の柄本明さん。その次が「女衒」の私だったので恐縮した。続いて「黒い雨」の田中好子さん。「キャンディーズのスーを役者田中好子にしてくださったのは監督です」と涙ながらに語る言葉に、監督への感謝の気持ちがズッシリと込められていた。スタッフも役者も、一度でも監督と仕事をした人は、今村学校の生徒になってしまう。遺影の脇には日本映画学校の理念が飾られていた。
「・・・個々の人間に相対し、人間とはかくも汚濁にまみれているものか、人間とはかくもピュアなるものか、何とうさんくさいものか、何と助平なものか、何と優しいものか、何と弱々しいものか、人間とは何と滑稽なものかを真剣に問い、総じて人間とは何と面白いものかを知って欲しい。そしてこれを問う己は一体何なのかと反問して欲しい。個々の人間観察を成し遂げるためにこの学校はある。まさに今村監督の映画論、人間論だ。
 「おい、人間観察をちゃんとやってるか。酒ばっかり飲んでいるんじゃない!」天国から監督の厳しい声が聞こえてきた。

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其ノ15 30年ぶりの受賞
7月9日(日)掲載
「初心にかえれ」・・・戒めに
 東京の講談師は現在59人。男性26人、女性33人で、数の上では女性優位だがまだまだ内情は男性社会。「講談は男に限る」という声が根強い業界だ。九州の博多に育った私は、男尊女卑の風潮に慣れていたこともあって「女のくせに」と言われることにさほど抵抗はなく、かえってそれをバネにこれまで頑張ってこれたと思っている。
 そんな私がこの度、国際ソロプチミスト福岡で、女性の地位向上に貢献したとして「女性栄誉賞」を戴いた。ソロプチミストは、管理職や専門職に就いている女性の世界的組織で、人権と女性の地位を高める活動をしている。福岡のホテルで記念の楯を手渡され「芸能界に入ってもらった賞は実は2度目。30年ほど前、女優デビューのころにもらったきりで、それ以来賞には縁がなかったんです」と目をうるませた。
 昭和51年、東宝「津軽三味線ながれ節」(帝劇)で、市原悦子さんの付き人として初舞台を踏んだ。主要な役ではなく舞台の背景で登場する人物を「その他大勢」とか「コロス」と呼んでいたが、私もその一人。付き人の合間にいくつかの役を演じた。エピローグ(最終幕)で、はじめて津軽の冬景色が現れる。幕が開くと上手から老婆(私)が一人トボトボと歩いてきて、舞台中央奥のお地蔵さんを拝んで下手に去る。その後、下手から主役の山田五十鈴さん市原さんが現れて感動のラストを迎える。
 私は市原さんの仕度を終えた後、急いで白髪のカツラをかぶり、顔にしわを書き入れて「かくまき」(毛布のような三角のショール)で顔を覆った。仲間から「かくまきで客席から顔は見えないんだから化粧の必要はないよ」と言われたが、老婆顔を作り歩き方にも毎回変化をつけた。すると出番を終えた出演者が帰る途中、私の老婆歩きを見ようと花道のところに集まり始めた。それがプロジューサーの目にとまり「新人奨励賞」となったのだった。
 今回の受賞は、西暦57年に後漢の光武帝が倭奴国の王に与えたとされる金印のレプリカを、地元の小学校に贈る運動を10年近く続けてきたことと、福岡ゆかりの先人の志を講談で語っていることが評価されたのだが、30年前を振り返る、いいきっかけにもなった。とにかくあの頃は純粋で何でも一生懸命だった。今はどうだろう。手抜きをしていないとは言えず、足腰も弱って老婆歩きは”現実のもの”となった。小さな賞でも大きな励み。と同時に「初心にかえれ」の戒とした。

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其ノ14 幼児教育の「先生」に
7月2日(日)掲載
やっぱり国語は大切だ
 現代の幼児教育は盛んで,レベルもかなり高いと聞く。小学校にはいる前の教材「入学準備プログラム」で,音読の先生役をやることになった。相手役は5歳の子供3人。付添のお母さん方は20代後半で,あまりに若いのでビックリ。「そうか,お母さん達が私の娘世代で,その子供たちは孫ッてことになるのか」と,少々愕然とした。
 スタジオの中では,虎の着ぐるみのキャラクターが地球儀を動かしながら,月の満ち欠けの映像を撮っていた。それにテキパキ指示を与えているのは,白髪交じりのH監督。子供の撮影では早撮りが求められるので,当然カメラマンや照明などはベテランスタッフが集められていた。「紅さん,寺子屋風にしましたよ」と監督。やがて先生用の文机が一つ,子供用の段ボール机が三つ並べられた。私は袴姿で本を広げながら五十音の言葉を音読し,着物姿の子供たちがその後に従う。昔の「あ」行は「あめんぼあかいな あいうえお」だったが,今回は「ありあるく あめなめあるく あいうえお」。「か」行は「かめこがめ かめかめおこめ かきくけこ」だ。
 意味もイントネーションも以前よりずっと難しい。私は練習して何とか言えるようになったが,子供たちは手以降なくすらすらと読み上げる。子供3人のうち2人が女の子。何事にも積極的で活発な女の子に対し,男の子は大抵おとなしくて声も小さい。ラストシーンはラップ調で踊りながらの音読。振り付けも頼まれたので,思いつくままアリとカメもギザギザ横歩きでリズムを取った。すぐにお母さん方は振りを覚えて,それを子供たちに必死になって教えている。私も母心ならぬ"婆心"で一緒に何度も踊ったので,息は切れるし汗も噴き出してきた。
 それなのに監督は「では紅さん,『次は声』と言ってね。そのあとAちゃんは『はい,大きな声で』と答えるんだよ。わかったね。スタート!」とすぐに声がかかった。だが,ボーッとしていて「はい,大きな声で」とAちゃんの台詞を言ってしまった。「あっ,ごめんなさい。先生が間違っちゃった」と深々と頭を下げたが,隣の机で子供たちはさも嬉しそうに笑っている。先生でも失敗するのかと安心した風の男の子は,それから大きな声で堂々と音読し,撮影はトントン拍子で進んだ。難解な言葉でもラップでもいい,英語教育の前にまず日本語ありきだ。

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其ノ13 名盤の思い出
6月25日(日)掲載
「スター」に夢中!青春時代
 NHK-FMの「私の名盤コレクション」という番組にゲスト出演した。5日間にわたり自分が大切にしてきた名盤の曲を紹介しながら,それにまつわるエピソードを話す40分のトーク番組で,パーソナリティはロックバンドSHOW-YAのボーカル寺田恵子さんだ。ロングヘアをカラフルに染めた,いかにもロックシンガーといったいで立ちの彼女と,着物姿の講談師の私。最初はミスマッチな対談で少々とまどったが,「どんなジャンルの曲も大好き」という彼女の礼儀正しい司会ぶりに,話は次第に盛り上がった。
 名盤の最初が「にしきのあきら 太陽の騎士」(原題は英語)。赤い箱に入った2枚組のLPで,後援会のメンバーだけに販売された限定版。実は私は高校時代,彼の後援会に入っていて,時々コンサートにも出かけていたのだ。箱を開けると,LPのほかに古いスポーツ紙の記事が出てきた。「イカ下コ」というタイトルで,ギターを片手にしたうら若き私の写真と「ただいま予備校生。淋しいときはギターを弾くの。曲はクラシック。ボーイフレンド?い・ま・す」と書いてある(このボーイフレンドとはその後,手痛い別れが待っていたが・・・)
 これが我が人生で取材を受けた最初の記事で「ヤング・オー・オー」という人気番組で「ミスヤング・オー・オー・コンテスト」に応募して準ミスになったときのもの。ミスになると「大好きなスタートデートができる」が賞品だった。もちろん私は,にしきのさんが狙い。審査では特技として,中学から習い始めたギターを,頭の後ろに持ち上げて弾いたり,お琴のように下において弾いたりと曲芸弾きをした。「曲芸弾きは今はミュージシャンがよくやるけれど,その頃は珍しい。自分で考えたの?」と寺田さん。「そう,普通に弾いても目立たないからね」「ところでミスになった人は誰とデートしたの?」「マチャアキと。悔しかったわ」「私も芸能界入りの動機は,同じあきらでもフィンガーファイブのアキラ君だったのよ」とは面白い。
 その後にしきのさんと会ったか聞かれ,首をしっかり横に振って「いいえ,できればこのまま」と答えると,彼女も「わかる,私もそう」。セピア色になった記事とともに,当時の思い出を慌てて赤い箱の中にしまい込んだ。そうすればパンドラの箱のように最後はきっと「希望」が残ると思ったからだ。

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其ノ12 女子大の講演にて
6月18日(日)掲載
「私語には怪談」静まる会場
 普段の講談は高齢のお客様が多い。それだけに,観客が学生の団体や若い人ばかりの時は,こちらもかなり緊張するものだ。先日,東京・千代田区にある某女子大の国文学総会で講演する機会をいただいた。相手は女子大生約150人と先生10人。実は去年も同大学の短大に講演に行き,夏だったので怪談噺をやったのだが反応は上々だった。
 今回は「大衆芸能・講談」と題し,講談の歴史や実践,小鳥も交えて1時間の構成。説明を加えながら学生さんたちに実際に講談を語ってもらうことにした。内容は,鎌倉時代の御家人をめぐる美談を描いた古典講談の「鉢の木」。栃木県佐野の庄に住む源左衛門常世のもとをある日,旅僧が訪れ,一夜の宿を借りる。まずしい源左衛門はせめて暖をとってもらおうと,大切に育てていた梅・松・桜の木を火にくべてもてなす一方,「いざ鎌倉というときには,いの一番に駆けつける」と語った。この僧こそ,鎌倉幕府の5代執権,北条時頼の世を忍ぶ仮の姿。その後,鎌倉が戦(いくさ)になり,時頼の身が危ういという情報(実は時頼が流したうそ)を聞き,源左衛門は言葉通りにはせ参じ,忠臣の鑑(かがみ)として称されるという物語だ。
 「さても源左衛門,その日の出で立ちいかにと見てあれば・・・」と短いくだりを全員をやった後,学生さん3人に出てきてもらったが,小さな声でどうにも元気がない。仕方なく司会役のM先生にお願いすると,大張り切りで扇をバシッと叩き,堂々たる語りぶり。それもそのはず,M先生は去年の会場にもおられ,「今年は指名されるかも」と練習していたらしい。ふと見ると,前方に陣取る先生方は皆,目をランランとさせて真剣な眼差し。だが肝心の学生さんは古典講談に飽きたのか,教室の後ろからは私語が聞こえ始めた。
 こうなったら怪談をやるしかない。急遽話題を切り替え,幽霊のしぐさをしながら胸の前に両手をダラリとぶらさげて「ともぞーさん」(「牡丹灯籠」のせりふ)。声に角をつけずに気味悪く言うと,会場はシーンと静まりかえった。よし成功,というわけで,「さあ,それではみんなで『ともぞーさん』と参りましょう」とたたみかけた。咄嗟の判断だったが,けっこう面白がってやってくれるではないか。”模範演技”をお願いした I 先生も観念したように,上ずった声で「ともぞー,さん!」。学生さんにも大受けし,私も何とか大役を果たすことができた。
 今回の経験から得た”格言”は「私語〈死後〉には怪談」。お粗末!

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其ノ11 巨匠が逝く
6月11日(日)掲載
「今村組」の凄みに触れ・・・・
 巨匠が逝った。カンヌ国際映画祭で2度にわたり最高賞もパルムドールに輝いた今村昌平監督、享年79歳。お通夜に30分遅刻で駆けつけた。汗を拭きながら式場に入ると、正面には監督の若い頃のお写真、左右にはあふれんばかりの供花、そして傍らに偉業を支えてきた奥様とご長男の天願大介監督の姿があった。 監督に出会ったのは、今から20年も前になる。
 映画「女衒・ZEGEN」の"からゆき"さん役で出演させてもらったのだが、その時の体験は強烈なものだった。主演は尾形拳さん。時代は日露戦争の頃。女郎の売買をする女衒の親分で、香港・マカオからマラッカに渡り、娼館経営で大儲けした村岡伊平次の物語。撮影は台湾、マレーシアなど約3カ月に及んだ。50人以上の集団を海外で長期間率いていくのは並大抵ではない。監督のカリスマ性がああったればこそだ。
 マラッカでの撮影の時のこと。娼婦役の私が外人のお客さんを送り出し、そこへ伊平次が帰ってくるシーンがあった。ロケは船上で、川の両岸には現地の見物客数百人がギッシリと並んで見つめている。台本には「上半身裸のオツノ(私)が客を送り出す」と書いてある。2度のリハーサルは浴衣を着たままやったのだが、本番は何の指示もない。「はーい本番」の監督の声。私は慌ててメイクさんに「脱ぐの?」と尋ねると、確認してきて「台本どおりですって」。すかさずカチンコが鳴った。待ったなし、ええいままよ!一気に浴衣を脱ぎ捨てて腰巻きだけになり、「サンキュー」と言いながら私は外人客を見送る。とそこへ伊平次が帰ってきて、一緒に船の中へ消える・・・。
  一瞬川岸は水を打ったかのようにシーンと静まりかえった。その後ワーという歓声がわき上がった。というのもマレーシアは裸はご法度の国。フランスの撮影隊がそのことで直前に国外退去になったばかりだった。予定外の展開に慌てたスタッフが私を問い詰めたが、監督は知らん顔で「が勝手にやったこと」とうそぶいた。それで何とか騒動にならずに済んだのだから凄い。監督の腹芸を皆が理解し、支える。それが「今村組」だった(もっとも、覚悟を決めて望んだこのシーンはカットになってしまい、日の目を見なかった。うーん残念!) 献花を終えて会場を見回すと、緒形さんがたった一人遺影を見つめて座っていらっしゃった。
私もしばしご冥福を祈り、世界の巨匠の片鱗に触れたことを誇りに思った。

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其ノ10 韓流にはまって
6月4日(日)掲載
カラオケよりドラマ
 古今東西の落語や寄席演芸を飛行機内のイヤホンで聴く番組の司会役を6年以上やらせてもらっている。相方は関西の「女道楽」の内海英華さん。女道楽は東京で言えば三味線漫談で,三味線を弾いて唄って踊っておしゃべりもうまい女芸人のことだ。5月末で番組スタッフの1人のT君がやめるので送別会をやることになった。大雨の中「何で降るのよ!」とお天気に悪態をつきながら地図を片手に指定の青山〔東京都港区)の店に向かったのだが,着いて思わず歓喜の声をあげた。そこは韓国風の木造家屋を改造した韓国家庭料理のお店。雨のうっとうしさは一瞬で吹き飛んだ。「冬ソナ」のヨン様ファンから始って,今ではすっかり韓流ドラマにはまっている私としてはこんなに嬉しいことはない。ニヤニヤしながら中に入ると1階は土間にテーブルが並べられ若者があふれかえっていた。
 案内された2階の座敷は掘りごたつ式の普通の居酒屋だが窓の格子や壁などがどことなく「宮廷女官チャングムの誓い」の民家を思わせる。店員は皆韓国人でお国言葉が飛び交っていた。T君に代って新たにスタッフに加わるのは日本に来て4年という韓国人女性のスジョンさん〔24〕。ネイティブの流れるような韓国語に耳を傾けながら次々と出てくる料理に舌鼓を打つ。骨付き豚肉とじゃがいもの鍋「カムジャタン」の山盛り具沢山には驚いた。韓国ビールや店お勧めの不老長寿のお酒「百年酒」にほろ良い気分になったころ,慣れぬ手つきで鍋奉行を務めていたT君に,見かねた英華さんが「何やってんの鍋はこうすんよ」さすが年の功かその手つきのうまいこと。「T君も6年前は20歳,ずいぶん大人になったね」と私が言うと,すかさず英華さんが「わーっ,おばさんしてる」と突っ込み一同爆笑。和やかな雰囲気で蓙が進んだ。
 「ところでスジョンって『バリでの出来事』のハ・ジウォンさんの役名と同じだね」。そう尋ねると彼女は目を白黒させて「すみません,韓国ドラマ見てなくて・・・」と申し訳なさそうに答えたが,すっかり”韓国モード”の私は構わずに質問攻めにした。名前のスジョンは水晶の意味だそうで彼女お勧めのスジョングア〔シナモン風味の甘い飲み物〕を最後に飲んで店を出た。2次会のカラオケには行かず録画していた韓国ドラマ「天国の樹」を見るため一目散に帰宅した。

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其ノ 旅の重み
5月28日(日)掲載
美味には勝てぬ。3日で2kg
 1年前の今ごろは雑誌の取材のダイエットで3ヶ月で7kgの減量に成功,53kgまで体重が減ったのだが,その後の”不摂生”で58kgまで戻ってしまった。「このままじゃ,また膝の痛みが出る。今度の旅で2kg減らすぞ」そう心に誓って大分での「東京名人会」へと向かった。地元新聞社の創立120周年記念寄席。3日間の日程で中津・大分・佐伯の各市を回る。地元出身の若手落語家2人と漫才のベテラン青空球児・好児師匠,それに鹿児島弁の新作落語で人気の三遊亭歌之介師匠も一緒だ。
 初日の中津では昼を抜き,福沢諭吉記念館を見学して会場に。私の講談の後が歌之介師匠の登場だ。太った自分の奥さんが体重計に乗るたびに首をかしげる。片足を上げてみたり,髪が濡れているから重たいのだと独り合点をしたりする。良く聞くネタだが師匠独特の軽妙な描写が面白く私も笑い転げた。夕食は楽屋でのお弁当というので,後は何も食べないつもりで全部平らげたら,終演後歌之介師匠から地元のお寿司屋さんに誘われた。「しまった!弁当を食べるんじゃなかった」と内心後悔したが滅多にないチャンス。喜んでお伴をした。大分名産の城下カレイ関アジ関サバしし肉とろステーキ・・・どれも美味しくどんどん入る。焼酎も飲んでお腹はパンパン。ホテルに戻って体重計に乗ると59kgになっていた。「うわーっ,1kg増えている」体重計の上で何度も首をひねった。
 二日目の大分では夜の会食が予定されていたので,朝昼を少なめで我慢し繁華街である都町の料亭へ。おこぜの刺し身唐揚げあらの煮付け炊込みご飯フルーツと豪華に並べられるお膳に「食べるのが礼儀よ」と空腹も手伝ってガツガツ。ホテルで体重計に乗ると59.5kgと大台寸前。「うひゃ,また増えた」片足を上げてみたが数字が減ってくれるはずもない。
 三日目は佐伯。朝昼をほとんど抜き,会場裏の城跡へ30分ほど山歩き。終演後は皆と別れて福岡の実家へ帰り夕食は久しぶりに母の手料理を食べた。入浴後に体重計が示したのは59.8kg。「えっ,きっと髪が濡れているせいよ」と自分に言い聞かせて髪を乾かして恐る恐る乗っかると,げっ60kg!「これ,壊れているの?」と思わず叫んだら母が「旅の重さでしょ」ですっ・・・。

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其ノ 思い立ったが吉日
5月21日(日)掲載
「ネタ卸」は大勢の前で
 若い頃果たせなかった夢に中年になって挑戦する人が増えている。私の弟子の紅葉もその一人。子育てを終え50歳で講談界に入門,約5年の厳しい前座修行を経て今月二つ目に昇進した。お披露目は東京上野黒門町の講談定席(定席寄席)「本牧亭」。といってもいつもよりちょっと深い〔遅い)出番になるだけだが,自体験を振り返っても真打ちになるときより嬉しいものだ。下積みに課せられた,この世界独特のしきたりや下働きから解放されるからだろう。彼女は新調した深紅の紋付に金茶の袴姿(紋付も袴も二つ目から〕で刀鍛冶の名工の子供時代の物語「五郎正宗孝子伝」を力いっぱい語った。30人ほどの客席はほぼ満員。温かい拍手を浴びて嬉しそうに高座から下りてきた。
 「お疲れさん」と声を掛けながら私はまだ自分の原稿に手を入れていた。トリネタを本邦初演「柳原白蓮」にしていたからだ。「こんな日にネタ卸とは無謀な」と思われるかも知れないが,師匠〔故二代目神田山陽)はいつも「ネタ卸は大勢の前で。お客さんが少ないときは慣れたネタを」と言っていた。だから「思い立ったが吉日」でやってみようと思ったのだ。伯爵柳原前光の娘で波乱の人生を生きた大正ー昭和の歌人,白蓮は九州の炭鉱王伊藤伝右衛門と再婚するが,10年後に7歳年下の雑誌編集者宮崎竜介と出会い,新聞紙上で伝右衛門への絶縁状をたたきつけて駆け落ちする。
 《虚偽を偽り真実に就く時が参りました。拠ってこの手紙により,私は全力をあげて女の人格的尊厳を無視するあなたに,永久の決別を告げる事に致しました》三行半は男性から女性へ出される時代。妻から夫へ離縁状を突きつけたのだから,世論は大騒ぎとなった。紅葉の50歳入門と白蓮の36歳の出奔はどちらも「思い立ったが吉日で,それまでの人生に別れを告げて新しい世界に飛び込む共通点がある」とこじつけたネタである。「さて白蓮竜介と生涯を添い遂げてめでたしめでたし。紅葉も女流講談師として大成してくれることを切に願って」と約40分を語り終えて立ち上がろうとしたらしびれて立ち上がれなかった。ンもう,芸にしびれて欲しかったのに。しびれたのは自分の足とは情けない。こうなったら「思い立ったが吉日でダイエットを始めるぞ!」これまでも何度そう思ったことかしらん・・・。

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其ノ ヤッホー紅隊が行く
5月14日(日)掲載
けがなくて・・・よかった
 トレッキングを始めてもう七年になる。始めての山は神奈川県伊勢原市の大山(1252m)。落語の「大山詣り」でお馴染の山だ。町内の一行が揃って大山詣りをする。途中で酒を飲んで暴れたら頭を丸刈りにする決まり。何事もなく下山したのだが,神奈川の宿で熊公が酔って暴れ,寝ている間に坊主頭にされてしまう。怒った熊公は駕篭で先回りして家に戻り,丸めた頭をカミさん連中に見せて「船遊びで皆死んだので頭を丸めた」と嘘をつく。驚いたカミさんたちが「尼になる」と頭を丸めてしまう・・・という話。
 その大山初トレッキングから早や61回目。グループ名は「やっほー紅隊」10数人の講談愛好家のメンバーのうち,今回の参加者は9人。山選びはたいてい”大番頭”のUがやる。条件は3つ,富士山が見えて,帰りに温泉とお酒が付き,比較的楽な山。で,箱根の駒ヶ岳(1356m)にロープウエイで登ることになった。小田原駅に集合してバスに乗り,ロープウエイの発着所である箱根園に着くと「もう出ますよ」の声。急いでキップを買って飛び乗った。大型連休の始めでまだ車中はすし詰め状態ではなかったが結構混んでいる。「みんないる?」と声をかけたが幹事役のUの返事がない。無情にも眼下湖はどんどん小さくなっていく・・・。1台遅れでUは頭をかきながらやって来たが,確認もせず置いてきぼりにしたこちらも悪い(だろうなあ)。
 駒ヶ岳から冠が岳(1409m)に向かう。1000mを超えると山の景色がかなり違ってくるのが嬉しい。木々も低くなり尾根からは周りの山々が見渡せるはずだったが,富士山は曇っていて見えなかった。残念。頂上を少し下って昼ご飯。お楽しみは紅隊名物の食後のコーヒーだ。「初代湯沸かし屋」(三代目までいる)と称するSが心を込めて入れてくれたコーヒーに舌鼓を打って下山。箱根湯本で温泉に入ってさっぱりした後駅近くの居酒屋で乾杯。ほろ酔い気分でいざ小田原まで電車で。が,ふと気が付くと今度はSを置いてきてしまった。
 話は前後するが,実は下山途中にUが足を滑らせ,5mほど回転しながら滑落するというハプニングがあった。幸いなんとか無事だったが,あわや一大事になるところだった。「大山詣り」のサゲじゃないけれど,置いてきぼりにしても「怪我(ケガ)なくてよかった」とは,隊長(わたし)の勝手な言い分か・・・・。

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其ノ6 初夏の風物詩
5月7日(日)掲載
初鰹を出して・・・くれない
 「目には青葉 山ほととぎす 初鰹」江戸前・中期の俳人山口素堂が初夏の風物詩を詠んだ有名な句だ。以前「目に青葉」と語っていたら「目には,だよ」と指摘されたが,四,五月の季節ネタとしてこの句を枕〔話の導入部〕に「髪結新三」をやっている。数々の芸人を輩出した東京・浅草六区。ゴールデンウイーク中の浅草演芸ホールは,二回まであふれんばかりの大入り満員。立ち見のお客さんは通路に座り込んで「待ってました!」と声をかけてくれる。
 「初夏の風情,鰹の出てくる有名な講談。大岡裁き白子屋政談から歌舞伎でおなじみの髪結新三の一席」と語り始める。髪結いの新三が白子屋のお熊お嬢さんをかどわかす。お熊の恋人の手代,忠七を前に悪の本性を現わす名文句。「・・・うぬがか細いその体へ,べっとり印をつけてやらぁ」番傘に見立てた高座扇子を肩に見えを切ったところで,「!誰も声をかけてくれない!」。お客さんはどっと笑う。という名前は「・・・してくれない」に引っかけられるので何かと重宝だ。「永代橋から身を投げようとする忠七を止めた人物が弥太吾郎源七。この源七親分がお熊を取戻しに新三の住まいにやって来る。頃は初夏,さあいよいよお待ちかねの鰹が出て参ります。講談はこれからが最も面白い」と引きつけておいて「続きは次回のお楽しみ」と落とす。客席はワーッと歓声に包まれ,前の方の女性客からは「えー,やだーっ,残念!」との声が聞こえた。こんなときはついにんまりとしてしまう。話が一番盛り上がっているところで終わる。これが連続講談の醍醐味だ。
 でも,お客さんの中には気になる人もいるはず。以前親子連れが出口で待っていたことがあった。「あの後どうなるんですか?」と真剣に尋ねられ,ロビーで長々と結末まで説明したなぁ・・・などと思い出していると,急に鰹が食べたくなり,友人を誘って近所の寿司屋に行った。今では二月ごろから「初鰹あります」といった看板を目にするが,昔は初夏限定。旬のものを食べると長生きするという言い伝えから,目が飛び出るほど高価な出始めの鰹を,江戸っ子は粋がって借金をしてまで食べていたのだ。カウンターに座り,期待で胸をワクワクさせて鰹を注文すると,店の主人が「すいません,うちは鰹はおいていないんです。鮪の店ですから。鰹は次回のお楽しみに」,「えー,やだーっ,残念!」お後がよろしいようで・・・・。

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其ノ5 至福の時間
4月30日(日)掲載
「後は寝るだけ」状態で映画
 先週は旅から旅の毎日だった。家を出る前は帰ってきたときのことを考えて,部屋をきれいにしていこうと思うのだがなかなか出来ない。一門会が終わったばかりで足の踏み場もない状態だったが生ゴミだけを捨てて飛行機に乗った。移動中は必ず何か作業することにしている。その方が疲れないし仕事も片づくので一石二鳥だ。佐賀までの1時間40分は礼状書きに没頭,25枚の葉書を仕上げたころ佐賀空港についた。佐賀平野をタクシーで市内に向かう。夕闇の中でも穀倉地帯が眼前に広がっているのが判った。「さすがは熱気球の土地柄ね」と運転手さんと談笑しながらホテルへ。
 土地の主催者の出迎えで美味しい薬膳中華をご馳走になり、翌日の打ち合わせを終わって自室に。むふふふふ・・・これからが私の至福の時間だ。掃除の行き届いた一流ホテルのツインルーム。大画面の液晶テレビがドーンとおかれていた。「どうか見ていない映画がありますように」祈りながらパンフレットを見る,、ジョニー・デップ主演の「チャーリーとチョコレート工場」があるではないか。「やった、これ見たかったのよ」小躍りしてシャワーを浴び,顔の手入れ(というほどのものじゃありませんが)を済ませて準備万端。「後は寝るだけ」状態で映画を見る。これが最高なのだ!
 「チャーリーとチョコレート工場」は色とりどりで実に楽しい。ラストの家族愛にも納得して時計を見ると午前1時。「よーし,もう1本大丈夫だ」ニヤニヤしながらニコール・キッドマンの「奥様は魔女」にチャンネルを合わせた。懐かしのテレビドラマのリメーク板。サマンサ役はテレビの方が親しみやすかったなぁ,などと思いつつ、鼻をぴくぴくさせるおなじみのシーンでは「あれは鼻ではなく,口を左右に動かしているんだから」とブツブツ。鏡の前で自分もやってみた。ニコールなら可愛いが私のはひょっとこみたいで可笑しい。「他人様にはみせられぬ・・・」興が乗ってきて顔体操までやりはじめ結局寝たのは午前3時半。でも映画を2本見た充足感でいっぱいだった。1週間後自宅に戻ったが我が部屋の惨状は出かけたときのまま。思わずサマンサ風に鼻を動かしてみた。もちろん何も変わりはしない。ハクション!出たのはくしゃみと鼻水。花粉症に加えて,ほこりアレルギーだった。

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其ノ4 ひたすら挑戦
4月23日(日)掲載
無限の可能性を求めて
 年に一回の紅一門会がやっと終わった。脱力感のままその翌日,中村勘三郎一座による東京渋谷のコクーン歌舞伎「東海道四谷怪談」北番を見に行った。毎回,本来の歌舞伎とは違った演出が楽しみで,新劇的趣向とのコラボも,会を重ねて全く違和感がなくなっている。
 実は私が講談の世界に入ったころ,「講談界の猿之助」を自称していた。伝統と格式を重んじる歌舞伎界にあって、宙乗りやスーパー歌舞伎で最初は異端児扱いされた市川猿之助丈にあやかってだ。あくなき挑戦で歌舞伎の普遍的な魅力をアピールしておられる姿勢に習,、私も講談界ではタブー視された音楽や照明を使った演劇的講談を発表,「芝居講談十種」と名付けた。通常の寄席ではなかなか演じられないが,個人的な会では今も時々やっている。
 3年前には紅一門を旗揚げした。私を入れてたった4人の極小集団だが,冒頭の今回は東京隼町の国立演芸場とアメ横近くの上野広小路亭で1回づつの公演を行った。前座の樋口一葉の「にごりえ」を妖艶に語った。続く紅葉は古典講談「秋色桜」を熱演。そして陽司はお客さまからお題をいただいての三題噺を蘊蓄講談師ならではの即興創作講談会場を沸かせた。
 私は芝居講談十種の女優シリーズ「マルリン・モンロー」今年は生誕80年なので80歳の彼女を最初に登場させる新趣向を加えた。短時間で老婆から若いマリリンへ変身しなければならない。ヘアメイクのT先生が作ってくれた鼻から下のマスクに80歳のしわを書き込み,衣装の上に着るガウンは古いコートを衣装・着付けのMさんがアレンジ。お金をかけずに創意工夫するのが紅流だ。頼りになるスタッフのおかげで早変わりも成功。地下鉄の通気孔に立ってスカートがめくれる有名なシーンを模した場面は,自慢の美脚も披露お客さまは大満足した(はずだ)。
 盛りだくさんのラストは旗揚げの時から創作を続けている「ヒップホップ講談」。入門当時,講談は和風ジャズだと感じた思いをラップにして歌い語っている。「見てきたような嘘をつき 変幻自在に時空を駆け抜け 紅一門挑み続ける 無限の可能性ひたすら求めて」猿之助丈勘三郎丈と舞台は違えど思いは同じ。チャレンジを続けることが大切だ。コクーン歌舞伎の感動からの帰り道,改めて自分に言い聞かせた。

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其ノ3 おしゃれの極意
4月16日(日)掲載
向井千秋さん見習い堂々と
 子供の頃から宇宙への憧れがあったが,そのきっかけは1963年の世界初の女性宇宙飛行士テレシコワさんの「私はかもめ」だった。同じようにその一言で日本初の女性宇宙飛行士になった向井千秋さんは実際に二度の宇宙飛行の快挙を成し遂げられていらっしゃる。私は1993年から日本の宇宙開発を側面支援する日本宇宙フォーラムの理事を務めているが、その理事会の後でフランスから帰国したばかりの向井さんにお目にかかり,何とお酒をご一緒するチャンスを得た。
 以前お会いしたときは初飛行後の制服で堅いイメージだったが,今回は仕事を離れた素顔でとても親しみやすい感じ。濃い茶のジャケットにベージュのストライプのブラウス,襟元にはアジアンテイストのスカーフを結んで,カーキ色のパンツに黒のベルト。流行を追わない向井さんらしいシンプルなおしゃれだ。もちろん化粧っ気なしで,実にすがすがしい。「着物は良いわね。やっぱり季節にあったがらを着るのね」と桜をあしらった私の着物をほめてくれたので,「向井さんこそステキ。パリジャンはブランドなんかもたないって聞くけど向井さんはどうですか」と質問すると,「確かにフランス人はブランドなんて買わないし、私もそう。ブランドのバ重くて実用的じゃないし、高すぎるもの」ときっぱり。「まさかさんもそんな物は持たないわよね」と信じて疑わないまなざしで言われてドギマギしてしまった。「はぁ・・・」と曖昧に答えたものの、実は去年、念願の某ブランドのバッグを二つも買っていたのだ。
 屈託のない笑顔で向井さんは続けた。「日本に帰ってきて何が楽しいって,百円ショップね。あそこにはいろんなヒントがあるの。発想が生まれるのよ。」そういえば彼女が宇宙の持っていったクマのぬいぐるみ,、NASA(米航空宇宙局)の基地があるヒューストンのディスカウントショップで買った廉価な物だった。自分なりの価値観をしっかり持っていらっしゃる。かつては私も,そんな生き方が理想だったはずなのに・・・。俗物化してしまった自分を反省した。「おしゃれの極意は?」とたずねると,「堂々としていること,そうすればカッコいい」もちろん堂々とできるだけのその人の背景が重要なのだろうが,とにかく私も向井さんのように胸を張ってみることにした。これなかなかいい。

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其ノ2 平常心
4月9日(日)掲載
テレビ収録で客席は緊張
 東京一の雑貨街「アメ横」に近い広小路に平成になってできた寄席がある。江戸をしのんでその名も「お江戸上野広小路亭」。落語や講談,時にはお笑いのライブもやっている多目的寄席だ。そこで月に三,四日「しのばず寄席」というのが催される。演者は落語芸術協会員のほかに立川流や圓楽一門も一緒。めったに見られない顔ぶれが揃うとあって常連のお客様も多い。
 私は落語芸術協会に所属している講談師なので時々顔に入っている。「顔に入る」とはキャスティングされるということだ。この会にはたまにスカイパーフェクトTVの録画がある。演者はもちろん事前に知らされているのだが,お客さまは寄席に来て初めて知るということになる。
 先日出演したときのこと「おはようございます」昼でも夜でも業界の挨拶は朝だ。二階の楽屋のドアを開けると、先の出番の三遊亭好楽師匠が子供っぽい目で笑って迎えてくれた。スカパーではこれまですでに12本収録されている好楽師匠,鶴の名の由来をめぐる滑稽話「つる」で客席をわかせて「お仲入り」。つまり休憩のこと,「中」を寄席では人が入るように「仲」と書く。仲入り後最初の「くいつき」が私の出番。平常心を,と念じながら舞台に上がった。6本の収録だった私は語り慣れた「伊達家の鬼夫婦」。大河ドラマの「山内一豊」の枕から入って,一豊の妻お千代さんよりもっと現代的な奥さんが夫を出世させていく物語を身ぶり手ぶり、顔なんかもくしゃくしゃにして演じた。2台のカメラは動きに合わせて位置をあたふたと変えている。
 ところがいつもの笑いどころでドっと来ないのだ。「何故だろう・・・」。リズムが狂いシドロモドロになった。よく見ると客席にも緊張の色が漂っているではないか。前の方では袋から何か取りだしかけたが,ガシャガシャと音がしたのでやめてしまったし,途中で入った人も入口から二,三歩のところで”金縛り”になっている。「そうか、お客さまもカメラの存在にとまどっているんだ」そう思うと少し気楽になって,何とか高座を終えることができた。この日の出来は60点。平常心を保つことは難しい。お客さまに平常心を持ってもらうことはもっと難しい。改めて勉強させられた。

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其ノ1 涙の効用
4月2日(日)掲載
未練・後悔・・・流してスッキリ
 巷では、泣ける映画やドラマが相変わらず流行っているが,涙を流すと心が癒されるというのは本当だろうか。先日、神秘の島・屋久島を訪れるツアーに仕事を兼ねて参加した。以前から縄文杉を拝んでみたかったのだ。乗った船は「食」に定評のあるにっぽん丸。日本食が美味しくて家族的雰囲気なのでお年寄りのリピーターが多いらしい。約380人の乗船客のほとんどが70歳代。男性の一人旅も数人いて,これが皆明るく素敵なのには驚いた。海には男を元気にするエネルギーがあるのだろう。
 さて博多港を夕方4時に出港した船は,翌朝の9時には屋久島の宮之浦港に入港する。夜中の打ち合わせを終えた私は島歩きを夢見てリュックを枕に眠りについた。ところが翌朝,目が覚めると舟が大揺れに揺れている。「季節風が強く、風速27m、波の高さが4m,屋久島に近づくのは危険です・・・」船長の申し訳なさそうな声がアナウンスで流れてきた。「えー,えー」と何度もうめきながら窓越しに屋久島を見たが暗雲に覆われて島影さえもはっきりしない。しかも船は代替地の鹿児島港に向かって全速力で島から遠ざかって行く。屋久島は人を寄せ付けない島とは聞いていたが・・・ああ、無情! 
 鹿児島港では急ぎ別のオプションが組まれ,私は気を取り直して特攻隊の基地,知覧観光に同行することにした。このコースには希望者が多く3台のバスが用意された。早速地元のガイドさんが歓迎の挨拶をしたが,車内は重たい空気に包まれて返事もない。屋久島上陸を果たせず茫然自失状態だったのだ。必死で励ますガイドさんの言葉が白々と宙を舞っている。私も寄席で似たような経験があるので,気の毒になって精一杯拍手を送った。ところが知覧の特攻平和会館に入るやいなや,あちこちからすすり泣きが聞こえてきた。「これを読むと泣かずにはいられない」と女性客は特攻隊員が遺した手紙に涙を流し,戦争体験のある男性客は涙を浮かべて戦況を説明していた。私も1036人の尊い遺影に手を合わせた。
 バスに戻ると不思議なことに客の表情は一変していた。何だかスッキリしているのだ。島への未練を涙とともに流したお客は私の夜の講談会を大いに盛り上げてくれた。やはり涙の効用はあったのだ。ストレスにあふれ返った現代社会。”涙の需要”は益々増えるのだろう。

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